内田監督は、そうした「時間」の絡みを徹底的に突き詰め、サル的な幸運が尽きたときになにが起こるのかを描き出そうとする。しかし、そこに話を進める前に別のことにも言及しておきたい。
この映画は、わたしたちがどのようにして今日のような男性と女性になったかについても考えさせる。サルが歩み、オオカミが無視した道とは、どのような道だったのか。ローランズは興味深い仮説を紹介している。長い引用になるが、面白いと思ってもらえるだろう。
「公的なアルファ雄であったニッキーが五十メートル離れた草地に寝そべっている間に、ラウトは一頭の雌チンパンジーに言い寄った。ラウトの誘惑の テクニックは想像がつくだろう。雌に勃起したペニスを見せながらも、ニッキーには背を向けて、どうしているかを彼には見えないようにしたのだ。疑わしく 思ったのか、ニッキーは立ち上がった。すると、ラウトはニッキーには背を向けたまま、雌からゆっくりと数歩だけ離れ、腰をおろした。ラウトは、ニッキーの 接近に気づいたから自分も動いたのだと、ニッキーに思われたくなかったのだ。それでも、ニッキーはゆっくりとラウトの方へと近づき、途中で大きな石を拾い 上げた。ラウトはときどき振り返っては、ニッキーの進行状況を確かめ、それから下を向いて、だんだん萎えつつあるペニスを見た。ペニスがすっかり萎える と、彼は回れ右をして、ニッキーに向かって歩いた。そして、自分がいかに勇敢なチンパンジーであるかをこれ見よがしに誇示するかのように、その石の臭いを 嗅いでから、ニッキーと雌をその場に残して立ち去った」
『ふゆの獣』のなかで起こることは、これが進化、洗練されたものとでもいえるが、本質はそれほど変わらない。そして、これにつづく文章がさらに興味深い。
「オオカミが無視した進化の道を、なぜわたしたちが歩んだのかという問いに対する明白な答えは、このエピソード(この類の話はたくさんある)から 得られる。つまりは、セックスと暴力だ。これら二つによって、わたしたちは今日のような男性と女性になった。幸運に恵まれたオオカミ(アルファ雄やアル ファ雌)でも、一年に一度か二度しかセックスをしない。多くのオオカミはまったくすることがない。それでも、こうしたオオカミがセックスを恋しがったり、 強いられた禁欲生活に苦しんでいるという兆候は見られない。サルであるわたしは、セックスに関することを客観的に見ることができない。だが、火星から来た 行動学者が、オオカミと人間の性生活の比較研究をする様子を想像してみよう。その行動学者は、オオカミのセックスに対する態度は多くの点で健康で規律正し い、という結論に達するのではないだろうか。オオカミは、セックスができればそれを楽しみ、するチャンスがなければ、それはそれで不満を感じないのだ。こ こで、オオカミを人間に置き換え、セックスをアルコールに置き換えてみると、人間は健康のために必要な態度を発達させており、過剰な快楽の悪癖と欲望を抑 える慎み深さの間で、効果的にかじを取っていると言えるかもしれない。けれども、わたしたちはセックスについてはこのように考えることができない。セック スをしなかったら、もちろんしたくなる。セックスは自然で健康なのだ、と思わずにはいられない。このように思うのは、わたしたちがサルだからだ。オオカミ とくらべると、サルはセックス依存症なのだ」
『ふゆの獣』には、このようなことを考えさせる世界がある。ということで、話をサル的な幸運が尽きたときに何が起こるかということに戻す。この映画の終盤では、4人の主人公が偶然にもひとつの部屋で顔を合わせてしまう。
これまで1対1の空間では、それぞれの人物の「時間」は、かろうじて均衡を保ってきた。しかし、4人が共有する空間のなかでは、各自の時間は崩れていく。 サル的な彼らは、それぞれに必死に自己を正当化しようと言葉を繰り出すが、やがて言葉を媒介として成り立つような世界は崩壊し、衝動が噴き出す。「時間」 は「瞬間」に変わる。だから彼らは、動物に相応しい自然のなかを必死に走りつづけることになるのだ。 |