現在のフィンランド映画界を代表する監督といわれるアク・ロウヒミエス。『4月の涙』(09)の題材になっているのは、同じ国民が敵味方となって戦ったフィンランド内戦だ。内戦末期の1918年、白衛隊の准士官アーロと捕虜となった赤衛隊の女性兵ミーナが出会い、二人の間で愛と信念がせめぎ合う。
そんな設定から筆者はありがちな男女の悲劇を想像していたのだが、実際に作品を観たらまったく違っていて正直驚いた。この映画では、内戦の物語が、「人間中心主義」と人間の位置を自然のなかに据える「環境哲学」という現代的な視点から読み直されている。
白衛隊に捕えられた女性兵たちは、乱暴され、逃亡兵として処刑されていく。アーロは、そんな指令を無視した処刑に抗議し、かろうじて生き延びたミーナを公正な裁判にかけるため、作家で人文主義者のエーミル判事がいる裁判所に護送しようとする。
ところが、海上を移送中に彼女が抵抗したためにボートが沈み、二人は孤島に漂着する。このあたりからこの映画の独自の視点が目立つようになる。アーロとミーナの関係は変化するが、何を見るかによってその意味が違ってくる。
人間だけを見ていれば、二人が寝たのかどうかに関心が向く。後にエーミル判事も「寝たのか」と詰め寄る。しかし、二人を取り巻く環境が目に入れば、彼らを結びつけるのが、まずなによりも苛酷な自然のなかで生き延びようとすることであるのがわかる。
ロウヒミエス監督はどうも直感でそうした表現をたぐり寄せるらしい。プレスのインタビューではこのように語っている。
「僕は直感で動くことが多い人間でね。キスをしたあとのシーンを撮影しなかったわけではないんだ。だけど、映画ではカットした。その方がいいと思ったんだ。彼らが寝たかどうかは想像に任せるよ(笑)。映画をご覧になる方が好きに解釈してくれればいい。寝たかどうかというよりも、あの二人を結びつける何か……もっと深いものが彼らの間に生まれたということがあのシーンで伝わればいいと思ったんだ」
筆者にはこの孤島の場面では、内戦とは次元が異なる世界、「二人を結びつける何か」がしっかりと描き出されていると思う。この場面を見て、これがありがちな男女の悲劇とはまったく違う映画であることを確信した。
そして、この物語の鍵を握るのがエーミル判事だ。内戦という修羅場で教養に飢えていた彼は、ゲーテの詩を諳んじるアーロを歓迎する。だが、内戦は彼らを対極の存在に変えている。
エーミルとアーロを結びつけるのがゲーテの世界であることも筆者には興味深く思えた。ゲーテは現代の環境哲学と必ずしも無関係ではないからだ。クラウス・マイヤー=アービッヒは『自然との和解への道』の冒頭で、ゲーテの「共世界」という概念について以下のように書いている。
|