この映画は筆者にふたつのことを思い出させる。ひとつは、ロマの血を引くトニー・ガトリフがフラメンコを題材にして撮った『ベンゴ』(00)のことだ。筆者がガトリフにインタビューしたとき、彼は、20年前からこの企画を温め、完成までに時間を要した理由を以下のように語っていた。
「ずっとフラメンコを映画に撮りたいと思っていたのですが、フラメンコを耳で聴き、心と身体で感じることはできても、映像できちっと描くことは非常に難しかった。それを克服し、資金を調達するのに時間がかかった。映画にできると思ったのは、(カコ役の)カナーレスとディエゴ役の対比を核にするというアイデアが出てきてからです。カナーレスは、ハンサムで感受性が鋭く、素晴らしいダンサーであると同時に、内面には祖先から引き継いだ苦悩を抱えている。これに対してディエゴは、言葉や身体が不自由な身障者ですが、精神には何ものにもとらわれない純粋さがある。この正反対にある外面と内面の対比ができたところで、映画を作ることにしました」
この『ベンゴ』で興味深いのは、カコ役にアントニオ・カナーレスというフラメンコを代表するダンサーを起用しながら、彼は踊りを見せず、その代わりに障害を抱えるディエゴがひたすら踊ることだ。同じインタビューでガトリフは以下のように語っていた。
「ディエゴこそ偉大なダンサーです。フラメンコの踊りは、手足を苦しそうなほど捻じ曲げ、折れるかと思うポーズをとり、全身で表現をします。手足が不自由なディエゴは、全身を使ってまさにそういう動きをするわけです。それはもう究極のダンサーといえます」
このガトリフの言葉を踏まえるなら、優れたダンサーにカメラを向け、演奏と踊りを撮るだけでは、フラメンコの本質をとらえたことにはならない。
この映画のなかで長嶺も同じようなことを語っている。彼女は自分で油絵を描くが、その絵の表現をめぐる発言が印象に残る。美しいフラメンコの絵は、艶やかな衣装を描いているに過ぎない。本当のフラメンコはすごい不恰好で、きれいなものではない。その醜さ、人間の本性を描きたい。
この映画にも、『ベンゴ』におけるカナーレスとディエゴに相当するコントラストがある。長嶺と傷ついた動物との触れ合いはまさにディエゴの世界であり、前脚を失った犬や寝たきりの犬・ハチの身ぶりや表情には生命を強く意識させるものがあるのだ。
そしてもうひとつ筆者が思ったのは、この映画もまた、人間と猫の関係を見つめた想田和弘監督のドキュメンタリー『Peace』(10)と同じように、哲学者マーク・ローランズの『哲学者とオオカミ』を参照することで、その魅力に迫れるということだ。
本書では、オオカミと暮らした経験を通して、人間であることの意味が掘り下げられる。ローランズは、サルを人間が持つ傾向のメタファーとして使う。たとえば、「サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、結果を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ」。だからこそサルは、知能を発達させ、文明化することができた。では、サルとオオカミはどこが違うのか。
「オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ」
私たちはサル的に生きている。将来を夢見ることもその傾向に含まれるのだから、それは決して悪いことではない。だが、人生はそれだけではない、といつか気づくことになる。ローランズは、サルの幸運が尽きたときに、人生で一番大切なものを発見すると書いている。
長嶺はかつて世界的な踊り手になることを熱烈に願ったが、いまはもうそういう願望はない。「自然とともに大地の上で踊るほうが大切と思った」
そして彼女は、今にも燃え尽きそうなハチとともに瞬間を生き、その瞬間の閃きをカンバスに塗り込める。「すべてを受け入れ、死は死として受け止めながら、死が永遠のものにつながっていくことを、はっきり見えるようになったのです」
そんな長嶺の心の在り様は、ロマのそれに近いといえるかもしれない。トニー・ガトリフはこのように表現していた。
「ロマは今この時がすべてで、過去とか未来という概念を持ちません。過去、現在、未来をすべてひっくるめて、“テハラ”というひとつの言葉で表現してしまいます。昔は墓も持たなかった。精神が解放された後に残った身体は石ころと同じなのです。非常に重要な人が死んだ場合には、遺品もすべて燃やす。現世に生きた痕跡というしがらみをすべて消し去るのです」
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