『愛より強い旅』の冒頭で、ザノが「アルジェリアに行かないか」と言い出したとき、ナイマはゲラゲラ笑い出す。彼女は、ザノの突飛な思いつきに、気まぐれで付き合うように見える。しかし、アルジェリアに向かう旅のなかで、そんな図式は大きな変化を遂げていく。監督のガトリフは、『愛より強い旅』の出発点についてこのように語っている。「この映画は、ひとつのアイデアから発展したわけではなく、私自身の傷痕に向き合いたいという欲求から生まれた作品なんだ」。(★1)
ガトリフの言葉にある傷痕は、ザノとナイマの肉体に反映されている。ザノの足には火傷の痕があり、ナイマの背中にも消えない傷痕がある。それらは、彼らが背負う精神的な傷痕の象徴でもあるが、その傷痕に対するふたりの姿勢はまったく対照的だ。ザノは旅のなかで傷痕の背景を語り出す。彼の祖父は、反植民地主義の英雄で、1959年に拷問されて死んだ。両親は1962年にフランスに送還された。その後、両親とザノは、休暇に車で故郷に向かおうとしたが、交通事故に遭い、両親は亡くなり、ザノは足に火傷を負った。それ以来、ザノはヴァイオリンを弾いていない。
一方、ナイマは、背中の傷痕ばかりではなく、過去についてもほとんど何も語ろうとはしない。彼女は重い過去を背負っているのだ。だが、アルジェリア人のレイラに対しては、過去を思い起こすことの不安よりも、同性であることの親近感が勝り、重い口を少しだけ開く。彼女の父親は、アラビア語も祖国のことも話したがらなかった。彼女は、14歳のときから放浪生活をしている。彼女には、祖国と繋がるものが何もなく、ただ辛い過去から逃れようとして彷徨いつづけてきたのだ。
失われた過去や家族、故郷との繋がりを取り戻そうとするザノとそれらから逃げようとするナイマ。ふたりは恋人同士ではあるが、彼らの間には傷痕をめぐって越え難い隔たりがある。アルジェリアに向かうことは、ナイマにとって大きなプレッシャーとなる。彼女が映画の冒頭でゲラゲラ笑い出すのも、サッカー場でエキセントリックなダンスをするのも、プレッシャーをかき消そうとする行為なのだ。彼女がフラメンコ酒場で、見知らぬ男について行くのも、尻軽だからではない。フラメンコは、彼女の背中の傷痕と共鳴する。彼女は、甦る過去の痛みから逃れるために、刹那的な快楽を求めるのだ。そして、アルジェリアにたどり着いた彼女は、完全に落ち着きを失い、爪を噛みつづける。
ザノは、かつて家族が暮した家で、大切な父親の記憶を取り戻す。それで、パリを発ったときの彼の目的は達成されたことになる。しかし、ザノと疎外感に苛まれるナイマは、アルジェリア人たちによって呪術師のもとに導かれ、神秘的な領域へと踏み出す。呪術師は、ナイマの背中の傷痕を見抜き、「霊魂は別のところにある、早く己を取り戻し、家族を見出せ」と語る。彼女は、逃げつづける生活のなかで魂の抜け殻になろうとしていたのだ。そんな彼女はザノとともに、伝統的なスーフィー音楽に身を委ねる。その呪術的な力によって彼らが獲得するものは、もはや故郷ではなく、ロマの精神というべきだろう。
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