「ずっとフラメンコを映画に撮りたいと思っていたのですが、フラメンコを耳で聴き、心と身体で感じることはできても、映像できちっと描くことは非常に難しかった。それを克服し、資金を調達するのに時間がかかった。映画にできると思ったのは、(カコ役の)カナーレスとディエゴ役の対比を核にするというアイデアが出てきてからです。カナーレスは、ハンサムで感受性が鋭く、素晴らしいダンサーであると同時に、内面には祖先から引き継いだ苦悩を抱えている。これに対してディエゴは、言葉や身体が不自由な身障者ですが、精神には何ものにもとらわれない純粋さがある。この正反対にある外面と内面の対比ができたところで、映画を作ることにしました」
確かにこの二人の対比は印象に残る。ダンサーであるカナーレスはまったく踊りを見せず、ディエゴがひたすら踊るのだ。
「ディエゴこそ偉大なダンサーです。フラメンコの踊りは、手足を苦しそうなほど捻じ曲げ、折れるかと思うポーズをとり、全身で表現をします。手足が不自由なディエゴは、全身を使ってまさにそういう動きをするわけです。それはもう究極のダンサーといえます」
「ベンゴ」でガトリフは、フラメンコを通してロマのアイデンティティを追究する。それでは彼は、消費社会が広がり、均質化が進む世界全般をどのように見ているのだろうか。
「非常によくない状況だし、ジプシーの社会も悪化している。9世紀の頃から迫害に耐え、抵抗を続けてきたのに、70年代あたりからその姿勢を捨てるようになった。ロマの言葉を失い、特有の服装も廃れ、音楽まで失われだした。それ以前は何世紀にも渡ってまったく変わらずに残ってきたのに。社会的には迫害されても、文化的には侵略されることはなかった。ところが、グローバル化が進んでから、急速に特有の文化が衰退しだした。一番の元凶はテレビだと思う。テレビがロマの宿営地にやって来て、撮影とか取材、いろいろなことをすると、だんだん文化的なアイデンティティが壊れていく。
それこそが注意を要すべき非常に重要なテーマです。文化的な侵略を免れるためにも、それをテーマに次の作品を撮りたいと思っています。世界的に同様のことが起こっていて、嘆かわしい現状です。グローバル化はいずれよい面が出てくるのかもしれないが、いまは危険な悪影響しかない。特に現代の価値観ではお金がすべてを支配し、結局、自分を見失うことにつながる。音楽にコミュニケーション、それから多国間の活動にしても、お金がすべてで、それが深刻な弊害を及ぼしている」
このコメントに出てきた次回作は、具体的にはどのような作品になるのだろうか。
「親の言葉に全然耳を貸そうとしないロマの子供たちを中心に描きます。だから言葉も音楽も失っていく。これはもう現代の真実です。でもこれから先、できることなら悲劇的な結末は避けたい。そうでないと、私が映画で描いたものは、すべて民俗学博物館にでも収まることになりますから。それどころか考古学までいってしまうかもしれない(笑)」
以前からガトリフに会ったらぜひ聞いてみたことがあった。「モンド」のなかで、ニースに流れてくる文字が書かれたオレンジには、どんな意味が込められていたのだろうか。
「あのオレンジはアルジェリアから流れてきます。アルジェリアには女性に殉教を強いるイスラムの宗派があって、4〜5年前までそんなことが行われてました。あのオレンジには殉教した女性たちの名前が書かれ、彼女たちに捧げるというメッセージになっています。もともとシチリアに、家族に死者が出るとその死者のためにオレンジを海に流すという伝統があって、それがヒントになりました。地中海は沿岸の文化が交流する場で、そういう出会いの象徴でもあります」
実に奥が深い。そんな文化交流を拡張したものこそが、よい意味でのグローバル化ということになるのだろう。 |