ジプシー(ロマ)の血を引く学者イアン・ハンコックの『ジプシー差別の歴史と構造』の巻頭に収められた日本の読者へのまえがきには、以下の記述がある。「1989年に共産主義が崩壊して、最大のロマニ人口の住む東欧地域を遮断していた障壁がなくなって、仕事と政治的安住の地を求めて西ヨーロッパやカナダ、アメリカへと向かう巨大な流れが生じた」
もちろん冷戦後の変化はそれだけではない。逆に、東欧地域に足を運んで、ジプシー文化を発見するということも起こる。たとえば、トニー・ガトリフの作品だ。『ラッチョ・ドローム』(93)では、インドのラジャスタンから、エジプト、トルコ、ルーマニア、ハンガリー、スロバキア、フランスを経て、スペインのアンダルシアに至るジプシーの歴史と軌跡が、音楽とダンスで描き出される。
この映画に登場する様々な音楽家たちのなかで、特に大きな注目を集めたのが、ルーマニアのタラフ・ドゥ・ハイドゥークスだった。このバンドが結成されたのは90年のことで、彼らは冷戦の終結とともに新たな道を歩み出したといえる。
さらに『ガッジョ・ディーロ』(97)では、ルーマニアのジプシーに焦点が絞られる。主人公であるフランス人の若者は、ルーマニアを訪れ、音楽を通してジプシーの世界に目覚めていく。
これはフィクションだが、ラルフ・マルシャレックのドキュメンタリー『炎のジプシー・ブラス』を観れば、同じ時期に似たようなことが実際に起こっていたことがわかる。96年に本物のジプシー音楽を求めてルーマニアを彷徨っていたドイツ人のヘンリー・アルンストは、北東部の小村でブラスバンドを発見する。そして、ファンファーレ・チォカリーアが結成され、やがて世界的な注目を浴びることになる。
前置きが長くなったが、ジャスミン・デラルの『ジプシー・キャラバン』は、そうした冷戦後の変化が新たな段階に入りつつあることを物語るドキュメンタリーだ。その題材は、4つの国の5つのバンドが6週間かけてアメリカの諸都市を回った2001年の“ジプシー・キャラバン・ツアー”。インドのマハラジャ、マケドニアのエスマ、ルーマニアのタラフとファンファーレ、スペインのアントニオ・エル・ピパ・フラメンコ・アンサンブルという顔ぶれは、『ラッチョ・ドローム』のツアー版といってもよいだろう。
映画は、彼らのステージや舞台裏を記録するだけではなく、それぞれの故郷での日常生活も浮き彫りにしていく。インドでは、子供たちが電気もない砂漠で歌や楽器を学び、音楽家になることを夢見る。10代で注目され、“ジプシー・クイーン”として成功を収めたエスマは、47人もの子供たちを引き取って育てた。成長した子供たちは、彼女のステージでも活躍している。アントニオの叔母のフアナは、家族がドラッグ中毒になった辛い体験を語る。5つのバンドのメンバーたちは、異なる土地で異なる生活を送り、異なる文化の影響を受けた音楽を継承してきた。そんな彼らの関係は、ツアーのなかで確実に変化していく。
最初は、バンド同士の間に距離がある。たとえば、フィナーレの合同演奏のリハーサルでは、アントニオのグループが明らかに戸惑っている。しかし、ツアーが進むにつれて、音楽や舞台裏での交流を通してその距離が縮まっていく。バンド同士が共演するようにもなる。彼らは、マハラジャの音楽にルーツを感じているようにも見える。そのルーツは、明確に証明されているわけではないが、すでに彼らを精神的に支える神話になっている。ジプシーとしてのプライドと神話的な力が、彼らをひとつにしていくのだ。
女性監督のデラルが関心を持っていたのは、そうした国境を越えた横の繋がりだろう。彼女は、ウェブ・マガジン「Stylus」で、自身のバックグラウンドについて以下のように語っている。「私はアメリカに住んでいるけど、アメリカ人ではない。イギリス人だけど、厳密にはイギリス人ではない。なぜなら私のルーツはインド人で、他にもユダヤ人やイラク人や様々な血を引いているからです」
そして、アゴスティーノ・フェッレンテのドキュメンタリー『ヴィットリオ広場のオーケストラ』からも、音楽を通して国境を越えた横の繋がりが浮かび上がってくる。映画の舞台は、移民が多く暮らすローマ旧市街のヴィットリオ広場。2001年、キーボード奏者のマリオとアゴスティーノ監督は、急激な変貌を遂げる街に残された映画館アポロ座が、ビンゴホールになるのを知り、立ち上がる。
劇場の再生のためには移民の参加が不可欠と考えた彼らは、多国籍のオーケストラの結成を目指す。街では、移民を排斥しようとするベルルスコーニ政権に抗議するデモが繰り広げられている。ふたりは、移民たちと共同戦線を張ろうとするが、メンバーはなかなか集まらない。ところが、彼らのもとに出演依頼が舞い込み、2002年秋の初舞台が決定してしまう。
ふたりは、そんな切迫した状況のなかで、移民の音楽家たちを見つけ出していく。豪華客船で歌っていたチュニジア人の歌手フシンは、介護ヘルパーとして滞在している。キューバ人のトランペット奏者オマールは、レストランでコックをしている。ジプシーのツィンバロム奏者マリアンは、地下鉄の車内で演奏している。コルシカ島からやって来たインド人のタブラ奏者ラヒスは、インドから親類を呼び寄せる。その歌手ビラルにとって、村の外で歌うのは初めての経験となる。
だが、20人という頭数は揃ったものの、本番までに残された時間はたったの一週間。リハーサルでは、軋轢も生じる。著名な歌手を父に持つインド人のシタール奏者サギールは、格下のカーストに属するラヒスやビラルと同列に扱われる不満を抑えられない。フシンは、エクアドル人のカルロスが作ったスキャットの曲を、歌詞がないから歌ではないと言い張る。しかしそれでも彼らは、本番でひとつになる。コスモポリタニズムを象徴するような鮮烈なステージが、常設のオーケストラへの道を切り開くことになるのだ。
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