ミヒャエル・ハネケの新作『隠された記憶』は、物語を追うだけなら、典型的なスリラーのように見える。テレビの書評番組で人気のキャスター、ジョルジュは、編集者の妻アンと一人息子のピエロとともに、パリ郊外で何不自由ない生活を送っている。ところが、そんな彼のもとに謎のビデオテープが届くようになる。
その中身は、最初は彼の自宅の光景だったが、やがて彼の実家など、少年時代と結びつく光景へと変化していく。そして、ジョルジュのなかに、マジッドというアルジェリア人の少年と共有した時間の記憶が、不安とともに甦ってくる。
かつて彼らの間に何があったのか。ビデオの送り主は一体誰なのか。そんなスリラーとしての見所は、物語が展開していくに従って必ずしも重要ではなくなっていく。この映画を観ながら筆者が思い出すのは、フランスで活動するモロッコ出身の作家タハール・ベン・ジェルーンが書いた『歓迎されない人々』のことだ。
フランスに生きるマグレブ人を題材にしたこのノンフィクションでは、植民地主義やマグレブ移民に対するフランス社会の姿勢やフランス人の心理なども鋭く掘り下げられ、もしかしたらハネケはこれを参考にしたのではないかと思えるほど、深い繋がりを感じさせるのだ。
たとえば本書では、以下のような表現で“忘却”が問題にされる。「フランスが消し去りたいと願っている思い出があるのだ。いくつかの価値がその特性と輝きを失うという犠牲を払っても、敢えて人々は忘却を培う」「忘却は過てる助言者だ。それが歴史のなかに腰を下ろすと、歴史を改竄し歪曲する」。そして、そんな忘却の象徴が、1961年に起こった悲劇だ。
当時、マグレブ人に対する夜間外出禁止令に抗議するために、民族解放戦線(FLN)のフランス連盟が組織したデモは、当局の激しい弾圧に遭い、多くの死傷者が出た。だが、それから20年後、「リベラシオン」のジャーナリストが、その迫害と殺戮を人々の記憶に甦らせようとしたとき、同世代のジャーナリストはほとんどが信じなかったという。『隠された記憶』のマジッド少年は、この悲劇で両親を失い、ジョルジュの家に預けられた。しかし、現在のジョルジュのなかで、その記憶は完全に消し去られていた。
ハネケは、そんな忘却を編集に置き換えてみせる。この映画には、書評番組の編集作業を進める場面が盛り込まれている。その番組のセットは、ジョルジュの家の居間と非常によく似ている。彼の人生もまた巧妙に編集されているのだ。一方、彼に送りつけられるビデオの映像には、カットもなく、その時間の流れは、彼にとってある種の脅威となる。
そこでジョルジュがとる行動もまた、『歓迎されない人々』を思い出させる。本書には、以下のような記述もある。「そこで社会は、直接の攻撃を受けていないにもかかわらず、自己防衛に出る」「この態度は批判に先立って攻撃態勢をとりながら正当防衛を主張するものだが、深刻な不安の印なのである」。マジッドと再会したジョルジュは、具体的な証拠もないのに彼を脅迫し、過去の記憶を再び抹消しようとする。しかし、息子の姿が見えなくなると、歴史には目を背けたまま、彼を自分の世界に引き出そうとする。
この映画でハネケが見つめているのは、フランス人に限らない。『ピアニスト』におけるクラシック音楽がヨーロッパの伝統的な社会を象徴していたように、この映画でも、ヨーロッパ人、あるいはオリエンタリズムという幻想に深く囚われた人々の心理を抉り出しているのだ。
一方、トルコ系ドイツ人の監督ファティ・アキンの『愛より強く』では、ハンブルクとイスタンブールを舞台に、トルコ人移民の複雑な心理が、対照的な立場にある男女の関係を通して、実に鮮やかに描き出される。ともにトルコ系である40歳のジャイトと23歳のシベルは、精神科クリニックで出会う。二人はそれぞれに移民二世の苦悩を背負っている。
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