ミヒャエル・ハネケは、精緻な考察と斬新な表現でヨーロッパの歴史や社会の暗部を抉り出してみせる。『ピアニスト』(01)に登場するピアノ教授のヒロインは精神的に男になっているが、それは伝統や制度に潜む男性優位主義に呪縛され、欲望を規定されているからだ。『隠された記憶』(05)に描き出される人気キャスターの忘却と不安、過剰な自己防衛は、歪曲され、黙殺されたマグレブ移民弾圧の歴史に起因している。
新作『白いリボン』ではハネケの鋭敏な感性がさらに研ぎ澄まされているが、それは彼が見出した題材と無関係ではないだろう。ミュンヘンに生まれ、オーストリアで育ち、近年はフランスを拠点に活動してきたハネケは、この新作でドイツと向き合い、独自の視点からナチスやファシズムに迫っている。
■■物語の舞台設定とドイツ帝国成立の過程■■
第一次大戦前夜、北ドイツにある静かなプロテスタントの村で、不安をかき立てるような陰湿な事件が次々に起こり、次第に子供たちの奇妙な行動が浮かび上がってくる。ナチスを題材にした映画が描くのは、ほとんどがナチスの台頭以後の状況だが、彼はあえてそれ以前の状況を掘り下げてみせる。
かつて教師として村に暮らした人物を語り手として、精度を欠く回想というかたちで綴られていく物語はあくまでフィクションである。舞台や時代背景、登場人物に関する情報も限られている。しかしこの映画は、まず何よりも歴史に対する精緻な考察から生み出されている。それを明らかにするためには、19世紀後半のドイツ帝国成立の過程を振り返ってみる必要がある。
ご存知のようにドイツの統一は、プロテスタントの強国プロイセンの首相ビスマルクによって推し進められた。彼はまず盟主プロイセンと北ドイツ諸邦を北ドイツ連邦にまとめ、さらに南ドイツ諸邦を併合していったが、そこで問題に直面する。南ドイツにはカトリックが支配的な領地がひしめいていたからだ。
彼はカトリック教徒に対して文化闘争と呼ばれる弾圧を行い、帝国への影響力を削ごうとするが、別の事態に対処するために最終的に和解を選択する。国内に台頭する社会民主主義と戦うためには、カトリック教徒に妥協し、共同戦線を張るしかなかったのだ。その結果、カトリック教徒は社会に受け入れられ、宗派の平等が確立されたかに見えたが、しこりが残った。J・F・ノイロールの『第三帝国の神話』では以下のように説明されている。
「だがそれにもかかわらず文化闘争いらい、一種の苦味が、すなわち、この「帝国の敵」であるカトリック教徒に対する不信の念が、とくに北方および東方の純粋にプロテスタント的な諸州に残った。これら諸州のひとびとにとっては、ドイツ精神とプロテスタンティズムは分かち難い一体をなしていたのである。外ならぬこの古き反ローマ熱に向かって、一九一八年以後の新国家主義、とくにナチが、反中央党、反カトリックの闘争においてアピールすることとなった」
この説明を踏まえれば、ハネケがなぜ北ドイツのプロテスタントの村を舞台に選んだのかがよくわかるはずだ。より具体的にいえば、このような村で成長したプロテスタントの子供たちが後に、ヒトラーの台頭に歩調を合わせるように、ナチスに追随する「ドイツ的キリスト者」の運動を繰り広げていく。ヒトラーの構想を実現するために道具として利用されていくことになるのだ。
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