1961年にエルサレムで行われたナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判。それを記録した膨大な未公開映像を、ドイツの学者ハンナ・アーレントの著作「イェルサレムのアイヒマン」をもとに、独自の視点で編集した異色のドキュメンタリーである。
この作品に映しだされるアイヒマンの存在は非常に興味深い。自ら行った非道な行為を、どこかの企業の会議で業績でも報告しているかのように説明し、組織のなかの人間としての自己を弁護する彼の姿は、ナチス親衛隊という言葉がまとうイメージから程遠い。
彼を糾弾しようとする者たちが、彼をナチズムの神話のなかに押し込めようとすればするほど、彼という人間存在の空白が際立つ。
アーレントの著作からひもとかれた悪の凡庸性なるものが、視覚を通して見事に実証されている。
この作品は単にナチズムという過去を扱っているのではない。映画の作り手は、エチオピアの飢饉やルワンダの大虐殺という現実を踏まえたうえで、このアイヒマンに至った。94年に起こったルワンダの大虐殺については、<隣人による殺戮の悲劇>で書いたように、100日間に国民の10人に1人、少なくとも80万人が虐殺された。
ジャーナリストのフィリップ・ゴーレヴィッチによれば、
この死者は、比率からすればホロコーストにおけるユダヤ人の犠牲者のほぼ3倍になり、広島、長崎の原爆投下以来、最も効率的な大虐殺だったという。なぜ隣人だった人間をこれほどまでに効率的に虐殺するようなことが起こりえるのか。「スペシャリスト」は、そんなテーマを検証しようとする。
そればかりではなく、思考を欠いたアイヒマンの存在は、もっと一般的で日常的な次元で現代社会を見直す手がかりを与えてくれる。われわれの多くは、個別の株式銘柄、ブランドやグルメについて豊富な情報を持ち、それを日々几帳面に処理しているが、その背後にある大局についてはきわめて鈍感になっている。
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