スペシャリスト 自覚なき殺戮者
Un Specialiste


1999年/フランス=ドイツ=ベルギー=オーストリア=イスラエル/モノクロ/128分/スタンダード/ドルビーSRD
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(初出:「中央公論」2000年3月号、加筆)

 

 

現代社会に広がる思考の欠落

 

 1961年にエルサレムで行われたナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判。それを記録した膨大な未公開映像を、ドイツの学者ハンナ・アーレントの著作「イェルサレムのアイヒマン」をもとに、独自の視点で編集した異色のドキュメンタリーである。

 この作品に映しだされるアイヒマンの存在は非常に興味深い。自ら行った非道な行為を、どこかの企業の会議で業績でも報告しているかのように説明し、組織のなかの人間としての自己を弁護する彼の姿は、ナチス親衛隊という言葉がまとうイメージから程遠い。

 彼を糾弾しようとする者たちが、彼をナチズムの神話のなかに押し込めようとすればするほど、彼という人間存在の空白が際立つ。 アーレントの著作からひもとかれた悪の凡庸性なるものが、視覚を通して見事に実証されている。

 この作品は単にナチズムという過去を扱っているのではない。映画の作り手は、エチオピアの飢饉やルワンダの大虐殺という現実を踏まえたうえで、このアイヒマンに至った。94年に起こったルワンダの大虐殺については、<隣人による殺戮の悲劇>で書いたように、100日間に国民の10人に1人、少なくとも80万人が虐殺された。

 ジャーナリストのフィリップ・ゴーレヴィッチによれば、 この死者は、比率からすればホロコーストにおけるユダヤ人の犠牲者のほぼ3倍になり、広島、長崎の原爆投下以来、最も効率的な大虐殺だったという。なぜ隣人だった人間をこれほどまでに効率的に虐殺するようなことが起こりえるのか。「スペシャリスト」は、そんなテーマを検証しようとする。

 そればかりではなく、思考を欠いたアイヒマンの存在は、もっと一般的で日常的な次元で現代社会を見直す手がかりを与えてくれる。われわれの多くは、個別の株式銘柄、ブランドやグルメについて豊富な情報を持ち、それを日々几帳面に処理しているが、その背後にある大局についてはきわめて鈍感になっている。


◆スタッフ◆

監督/脚本/製作
エイアル・シヴァン
Eyal Sivan
脚本 ロニー・ブローマン
Rony Brauman
編集/音楽 オートリー・モーリオン
Audray Maurion
音楽 ニコラス・ベッカー
Nicolas Becker
(配給:セテラ)
 


 そしてそんな現状と結びつくかたちで、にわかには信じがたい事件が起こるとき、 なぜ何も悪いことをしていない自分たちに災いが降りかかるのかと思う。しかし現代では、日常的な次元で誰もがアイヒマン的な思考の欠落の代償を引き受ける可能性があることを覚悟せざるをえない。

 黒沢清の「CURE」で連続殺人事件を引き起こす若者は、自分のなかにあるものがすべて外に出てしまったという台詞を口にする。この「スペシャリスト」のなかのアイヒマンを見ていると、それがどういう感覚なのか、フィクションではなく現実として理解できる。それがこのドキュメンタリーの最も恐ろしいところなのだ。


(upload:2001/08/15)
 
 
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