マーク・ハーマン監督の『縞模様のパジャマの少年』の原作は、アイルランド人の作家ジョン・ボインの同名ベストセラーだ。この児童文学作品の映画化では、現実をどう表現するかがひとつの課題になる。
原作はナチズムやホロコーストを扱っている。だが著者のボインが描き出そうとするのは、強制収容所が何かを知らないままに、その内と外で生活し、フェンスを挟んで向き合う少年が、状況をどのようにとらえ、友情を育んだかということだ。これはあくまでフィクションであり、必ずしも事実に即した物語ではない。
しかし映画では、子供の視点だけから世界を構築することは難しい。そこで物語と歴史をすり合わせていくと、ドイツ国民は当時、ナチの残虐行為をどこまで知っていたのかという疑問にぶつかる。
2001年に発表されて大きな反響を呼んだロバート・ジュラテリーの『ヒトラーを支持したドイツ国民』は、国民に支持される独裁者を目指したヒトラーが、情報を隠すよりも公開し、大多数の国民が知っていて積極的に協力したことを証明している。一方、史実を意識するハーマン監督はプレスのなかで、主人公ブルーノの母親のように、収容所の指揮官の妻でも夫の職務の実態を知らない人も多くいたと発言している。
筆者はここでその食い違いを追及するつもりはない。むしろ逆だ。フィクションと歴史をすり合わせることには限界があり、こだわり過ぎれば作品の視野を狭めることになる。ハーマン監督は、歴史との繋がりを強調するよりも、歴史をある程度まで踏まえた上で、フィクションならではの切り口を強調すべきなのだ。なぜなら彼は、原作の世界を歴史的な視点とは異なる独自のアプローチで再構築し、人間の心理を鋭く掘り下げているからだ。
冒頭に引用されるジョン・ベッチマンの詩が示唆するように、この映画は、ブルーノが自分の耳と鼻と目で世界をとらえるのか、分別に縛られていくのかを見極めようとする。ブルーノの家で執事として働かされるユダヤ人が父親の部下の中尉に暴行されるときには、その音だけがディナーの席に響き渡る。彼が奇妙な農場だと思っている収容所の奥には巨大な煙突がそびえ、煙が立ち昇ると家にまで異臭が漂ってくる。
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