しかし、だからといって原作の深みがそこなわれているわけではない。映画ではマイケルとハンナの関係が、独自の表現で掘り下げられている。
それはたとえば、マイケルとハンナが一泊旅行に出かけるくだりだ。レストランでマイケルにメニュー選びをまかせたハンナは、同じテーブルではしゃぎながらメニューを見ている子供たちにどうしても目が行ってしまう。彼女はこれまで勤勉に働いてきた。それでも自分は子供たちよりも劣っていると感じることが、彼女を傷つける。この場面を見ただけでも、彼女がなぜ秘密を隠し通そうとしたのかわかる気がする。
ハンナが教会の長椅子に座って、様々な感情が入り混じった複雑な表情を見せる場面も印象的だ。その表情の意味は、マイケルが彼女の過去を知ることによって明らかになる。この場面は、彼女の過去が教会と深く関わっていることを示唆している。
それから、水のイメージにも注目すべきだろう。1958年のマイケルとハンナの関係は、水と結びついている。ふたりは雨の日に出会う。ハンナの部屋では、朗読とセックスとともに、風呂に入ることが、彼らの親密な関係を表している。一泊旅行では、マイケルが川で泳ぐハンナを見つめながら詩を書く。ハンナを失った彼は、湖の浮き桟橋に腰を下ろし、湖面を見つめる。こうした水のイメージは、マイケルの視点に立てば、遠い記憶の象徴となる。逆にハンナの視点に立てば、過去を消し去りたいという願望と結びついていると見ることもできるだろう。
ナレーションを廃したことは、解釈の幅を広げることに繋がっている。それがよく表れているのが、ハンナに判決が下される場面だろう。原作ではこのように表現されている。「ハンナは自分がどう見えるか知っていたのだろうか。それともひょっとしたら、そういうふうに見せたいと思ったのだろうか。ぼくにはわからない。彼女は黒いスーツに白いブラウスという服装だったが、スーツの形や、ブラウスに合わせたネクタイなどが、まるで制服のように見えた。ぼくは親衛隊で働いていた女性たちの制服を見たことはない。しかし、ぼくも、他の傍聴人も、制服を目の当たりにしているような気がした」
映画では、このハンナの服装について異なる解釈ができる。彼女は、市電の車掌の制服を意識してそういう服装を選択したということだ。なぜなら、原作の彼女は判決の瞬間にマイケルの方をまったく見ることなく前を向いているが、映画の彼女はマイケルの方を見るからだ。こういう細やかな表現ができるのは、原作をしっかりと読み込んでいるからだろう。
『朗読者』映画化の企画は、アンソニー・ミンゲラの死によって、スティーヴン・ダルドリー監督に引き継がれることになったが、この小説はダルドリーに相応しい題材のように思える。
彼の初監督作品『リトル・ダンサー』では、主人公のビリーとその一家が、サッチャー政権と全国鉱山労組の間で繰り広げられる死闘の真っ只中にいる。彼らには勝利か敗北しかない。そこでビリーがバレエをやりたいと言い出すことは、裏切りにもなりかねない。この映画の感動は、そんな二者択一の厳しい状況のなかで、家族が第三の道を切り開いていくところにある。二作目の『めぐりあう時間たち』では、異なる時代を生きる三人のヒロインが、それぞれに生と死の境界に立たされている。そんな彼女たちには、一日のドラマのなかで、これまでとまったく違う生き方が脳裏をよぎる瞬間がある。
そして『愛を読むひと』にも二者択一と第三の道がある。ハンナの過去と秘密を知ったマイケルは、彼女を愛すのか憎むのか、許すのか裁くのか。大人になった彼は、苦悩しながら二者択一を乗り越え、彼にしかできない第三の道を切り開いていくのだ。 |