炭鉱の町で生まれ育った少年ビリーが、クラシック・バレエに魅了され、ロイヤル・バレエ団を目指す。この異色のサクセス・ストーリーを印象深く、感動的なものにしているのは、まず何よりもその時代背景である。84年という設定は、脚本家リー・ホールが意識して選んだ時代であり、その一年前でも一年後でも物語はまったく違うものになってしまったことだろう。
この年、二期目に入ったサッチャー政権と全国鉱山労組は、炭鉱ストをめぐって文字通りの死闘を繰り広げた。この双方には歩み寄りの余地はほとんど残されていなかった。一年前の総選挙で再選されたサッチャーは、自由主義経済を推し進めるために、衰退産業への支援を打ち切り、労組の影響力を排除する必要があった。
一方、総選挙で従来の社会主義路線を前面に出して敗れた野党勢力にとって、
全国鉱山労組は最後の砦となり、強硬な手段を行使する道を選んだ。労組は労働者とその家族に様々な圧力をかけ、ピケ隊を組織し、ストを維持した。これに対して政府は警察を全面的に支援し、鎮圧に乗り出した。
この映画の主人公ビリーと炭鉱労働者である彼の父親と兄は、この死闘の真っ只中にいる。父親と兄は毎日、ピケ隊に加わり、ストを維持しようとする。そんな勝利か敗北かという状況のなかで、ビリーがバレエをやりたいと言いだすことは、もはや一家族の問題ではなく、この死闘に対する裏切りにもなりかねない。この映画が感動的なのは、そんな厳しい二者択一の状況なかで、家族が第三の道を切り開いていくところにある。
サッチャーの政策は、強硬な手段をとらなければ達成されない改革だったとはいえ、結果として二者択一のしこりを残したことは間違いない。だから、『シャロウ・グレイヴ』や『トレインスポッティング』では、ただのエゴや拝金主義に成り下がった個人主義が浮き彫りにされ、『ブラス!』や『フル・モンティ』では労働者のコミュニティの誇りが描かれるのだ。この対照はサッチャリズムが残したしこりを端的に物語っている。
『リトル・ダンサー』で、父親がビリーに協力するようになることは、一見労働者としての敗北のようにも見える。しかしこの一家は、『トレイン〜』のように金ではなく、家族の可能性としての”未来を選ぶ”のだ。なぜビリーではなく家族の可能性かといえば、ビリーとゲイである彼の親友の対比がそれを物語っている。親友は周囲がどうあってもゲイとして生きていくことだろう。 しかしビリーは、家族とひとつになることによってダンサーになるのだ。
この映画はイギリスの現実をリアルに描く一方で、ビリーの夢や情熱を意識的にアメリカ映画的に描く。だから前半部分では彼の存在がひときわ浮いて見える。そんなふたつの世界が、アメリカ映画になってしまうことなく、第三の道へとまとまっていくことによって、この物語はいっそう印象深いものになるのである。 |