ベン・ソムボハールト監督の『アンナとロッテ』には、ふたつのドラマの流れがある。ひとつは、主人公である双子の姉妹が1926年に離れ離れになってから終戦に至るまでの過去のドラマであり、もうひとつは、年老いたふたりが保養所で再会する現在のドラマである。このふたつの流れは、映画のなかで絡み合い、最終的にわれわれは、それぞれに重い過去を背負う老女たちの関係を複雑な気持ちで見つめることになる。
保養所でアンナがロッテに声をかけるとき、われわれはその先に、感動的な再会のシーンが待ち受けていると思う。しかし、ロッテの表情は強ばり、アンナから逃げるような行動をとる。やがて彼女たちの過去の体験がすべて明らかになり、ロッテがそんな行動をとる理由も見えてくる。われわれは、その理由を理解できるが、それでも複雑な気持ちになる。それぞれの体験について考えれば考えるほど、彼女たちの過去を単純な善悪の基準で割り切ることが困難になるからだ。
そこで筆者が思い出すのは、ナチズムの研究者として知られたデートレフ・ポイカートが書いた『ナチス・ドイツ――ある近代の社会史』のことだ。ナチスの支配下に置かれた普通の人びとを日常的な視点からとらえることによって、ナチズムの核心に迫ろうとする本書の序論には、以下のような記述がある。
「(対象との)距離が近くなればなるほど、理論や方法論上の確かさが薄らいでいくだけではない。個人の体験や行動を理解する追体験においても、倫理上の明晰な基準が立てにくくなる。悪玉ファシスト対善玉の反ファシストという紋切型の情景は消えていく。あの時代の個々人の運命を自分の問題とうけとめるにつれて、彼らがおかれた苦境を理解したり、臆病とか、いかがわしい妥協にみえた行動の動機を納得することも多くなる。単純な黒白の図式は、すべてが灰色の図式にかわっていく。「ふつうの(単純な)人びと」の日常は単純どころではないことが、ますます浮かびあがってくる」。
『アンナとロッテ』の物語はフィクションではあるが、このポイカートの言葉に通じる視点がある。この映画には、ナチスの親衛隊や収容所に送られるユダヤ人は登場するが、戦場や戦闘、収容所などが具体的に描かれることはない。この映画は、対極の立場に置かれたアンナとロッテの日常の積み重ねを掘り下げ、結果だけを見れば単純な図式になってしまう悲劇の背後に、いかに複雑な葛藤があるのかを浮き彫りにしようとするのだ。
貧しい農民であるアンナの養父母にとって、彼女はただ労働力でしかない。彼女は、その養父母によって知的障害のある娘ということにされてしまう。そうすれば、学校にも行かせることなく、働かせることができるからだ。彼らはまさしくひどい人間たちだが、それでもその嘘が後に彼女にもっとひどい災いをもたらすとは思ってもみなかったはずだ。この養父母から解放され、メイドとして働くようになった彼女は、「遺伝病を有する子孫の誕生を防止するための法律」、いわゆる「断種法」が施行されると、その対象にされてしまう。
子供の頃には、神父の前で聖書をすらすらと読んでみせ、メイドになっても家の主からゲーテを借りるなど、彼女は豊かな知性と好奇心を持ち合わせているにもかかわらず、それを否定され、疎外されることになるのだ。そして、そんな孤立する彼女を受け入れるのが伯爵夫人であり、彼女は自分が必要とされることに救いを見出していく。 |