現在のアメリカでは、白人警察官が公務中に黒人男性を死亡させる事件が相次ぎ、大きな問題になっている。昨年の7月にはニューヨークのスタテン島で、43歳のエリック・ガーナーが複数の警官に拘束された際に首を絞められて窒息死し、8月にはミズーリ州ファーガソンで、丸腰の18歳のマイケル・ブラウンが警官に射殺された。今年の4月にはメリーランド州ボルティモアで、25歳のフレディ・グレイが逮捕された際に脊髄を損傷し、拘留中に死亡した。こうした事件は司法制度の問題点も浮き彫りにし、各地で抗議デモが巻き起こり、初の黒人女性司法長官が誕生することにもなった。
さらにもうひとつ、ここで注目したい事件がある。今年はこの映画に描かれる「血の日曜日」事件から50年という節目の年にあたり、事件が起こった3月7日にその舞台となった橋のたもとで式典が開かれ、オバマ大統領も演説し、翌8日には約7万人が参加したといわれる行進が行なわれた。しかし時期を同じくしてそんな行事に水を差す事件が発覚した。南部のオクラホマ大学で、学生団体の白人メンバーが黒人を屈辱する発言をして盛り上がる動画が公になり、反発した学生たちが学内で抗議を行なった。
そんな現実を踏まえるなら、この映画の題材が現在と深く結びついていることがわかるだろう。そこで重要になるのが、歴史をどうとらえ、描くかということだ。ジャーナリストのマーシャル・フレイディはキング牧師の評伝のなかで、彼の偉業を称えて式典が開かれ、学校や通りに彼にちなんだ名前が付けられ、彼の誕生日が国民の祝日になるような「大衆的な美化作用」の弊害について以下のように書いている。
「しかし、そうなる過程で、当時モントゴメリーからメンフィスに至るまでの彼の道のりが実はどんなにあやうく、曲折にみちた、不確実なものであったかが不明確になってしまい、ついには忘れられていった。それだけでなく、彼自身の人となりに関しても、本当は気が遠くなるほど複雑な人間であったのに抽象化され、実像にうやうやしく薄板をかぶせた実体感のない彫像のようになってしまった。ある人物をあがめるということは大体においてその人を空洞にするに等しい」
この映画は、その忘れられていったものやキング牧師の実像を取り戻そうとする。たとえば、キング牧師と同志たちには、ドラマを生み、メディアの注目を集めるという戦略があったようにも見えるが、それは厳密には戦略とはいいがたい。なぜなら南部では黒人は少数派で、多数派に対抗するためには、地元以外の国民の良心に訴えかけて、ホワイトハウスを動かす以外に方法がなかったからだ。また、セルマの学生非暴力委員会の姿勢が物語るように、キング牧師は同胞からも完全に信頼されているわけでもなかった。さらに、キング牧師自身も内面に葛藤を抱えていた。FBIが盗聴し、脅迫に使われるテープの中身が示唆するように、彼は妻以外の女性と頻繁に関係を持っていた。
歴史はひとりのカリスマの力で動いたわけではない。そこにはまさにあやうい綱渡りのようなドラマがある。妻コレッタの理解や同志の支え、同胞たちの尊い犠牲がなければ、キング牧師が信念を貫くことはできなかっただろう。この映画は、私たちに歴史についてあらためて考えさせる。大衆的な美化作用によって骨抜きにされた歴史は効力を失う。そして、本当に世界を変えたものが何なのかを理解したとき歴史は人々の血や肉となり、未来を切り拓くための土台になる。 |