かつては人が家庭を築き、子供を育てるにあたって“場所性”が重要な位置を占めていたが、いまでは人と場所の繋がりは確実に失われつつある。この映画に登場するバートとヴェローナのカップルも、場所に対する意識は希薄だ。
バートと妊娠6ヵ月のヴェローナがコロラド州に住んでいるのは、バートの両親がそこに暮らし、子供が生まれたあとに何かと面倒をみてもらえると期待していたからだ。カップルはそれを理由にコロラド州に引っ越してきた。だから、(どこであるかは定かでないが)以前に住んでいた場所にも、いま住んでいる場所にも特別な愛着を持っているわけではない。
これは余談になるが、コロラド州と住居ということで思い出されるのは、80年代から90年代にかけて、コロラドスプリングスを中心に50年代を再現するような郊外化が進行したことだ。エリック・シュローサーの『ファストフードが世界を食いつくす』に詳しく書かれているが、それまで南カリフォルニアに暮らしていた保守派の白人が、100万人という規模でロッキー山脈周辺の州に移動したという。
バートの両親がそこに含まれるのかどうかは定かではないが、もしそうだとすればこの物語は出発点からさらに場所性が希薄な設定が準備されていたことになる。
話をもどすと、両親を頼りにしていたバートとヴェローナに 予想外の出来事が起こる。孫の誕生を楽しみにしていたはずのバートの両親が、突然、ベルギーに移り住むと言い出す。その結果、彼らにはそこに住んでいる理由がなくなり、理想的な場所をさがして、アメリカ各地に兄弟や知人を訪ねてまわる旅が始まる。 |