[概要] 書き文字を持たないジプシーの一族に生まれながら、幼い頃から、言葉に惹かれ、文字に惹かれ、こころの翼を広げ、詩を詠んだ少女がいた。ブロニスワヴァ・ヴァイス(1910‐1987)。愛称は“パプーシャ”。ジプシーの言葉で“人形”という意味だ。彼女は成長し、やがてジプシー女性として初めての「詩人」となる。しかし、その天賦の才能は、外部者に秘密を漏らさないことを掟とする社会において様々な波紋を呼び、彼女の人生を大きく変えることになった――。
パプーシャの生涯には謎が多い。映画では、わずか15歳で年の離れたジプシー演奏家と結婚したこと、彼女の才能を発見した詩人イェジ・フィツォフスキとの出会いと別れ、ジプシーの社会を追放されたことなどが描かれ、この実在した女性詩人の生きた日々を鮮やかに映像に刻印している。[プレスより]
ヨアンナ・コス=クラウゼとクシシュトフ・クラウゼの共同監督になる『パプーシャの黒い瞳』のヒロイン、ブロニスワヴァ・ヴァイス(通称パプーシャ)については、イザベル・フォンセーカのルポルタージュ『立ったまま埋めてくれ ジプシーの旅と暮らし』の序章「パプーシャの口からこぼれた歌」で比較的詳しく紹介されている。ちなみに筆者は、トニー・ガトリフの『愛より強い旅』や『トランシルヴァニア』、ダニス・タノヴィッチの『鉄くず拾いの物語』のレビューでも本書を引用している。
ポーランド・ジプシーは、クンパニアという複数の家族からなる大きな集団を作り、馬に引かせたキャラバンを組んで旅をしていた。パプーシャはそんな暮らしのなかで読み書きを覚え、すぐれたジプシー歌手、詩人となる。そんなパプーシャは、ポーランドの詩人イェジ・フィツォフスキが彼女の才能に気づいたことで、閉鎖的なジプシーの世界の外にも知られるようになる。だがやがて、ジプシーの仲間から白人(ガジョ)の共謀者とみなされるようになり、彼女の詩が出版されたあとでジプシーの裁判にかけられ、終身追放の罰を受ける。その後は、1987年に没するまでの34年間を孤立無援で暮らしたという。
『パプーシャの黒い瞳』では、そんなパプーシャの人生の断片が、時間軸を操作することによって時代を前後させながら描き出されていく。モノクロの映像は陰影の富み、引いたショットを多用するカメラワークと相まって、非常に深みのある世界を切り拓いている。クンパニアを基盤とした生活やキャラバンの旅、ジプシーの音楽もリアルに描き出されている。
しかし筆者が最も印象に残ったのは、パプーシャが読み書きを覚えたことの重さを表現するエピソードだ。フィツォフスキがわけあって、ジプシーたちと行動をともにすることになったとき、パプーシャを含めた女たちが、好奇心から密かに彼の荷物を引っ掻きまわす。そのとき、荷物のなかに文字を見出し、それを読むパプーシャが、他の女たちから白い目で見られ、疎外されていることがわかる。さらに、紙に詩を書いていることを見咎められ、焼き捨てられる。
もっと辛いのは、ジプシーの世界にも戦渦が迫る場面だ。トニー・ガトリフの作品でしばしば言及されるように、ジプシーもユダヤ人と同じようにホロコーストの犠牲になった。パプーシャは活字を通してドイツ軍が迫っていることを知るが、彼女がそれを伝えようとしても耳を貸す者はいない。そのあとで、同胞が虐殺されていくのを見ることは、耐え難い苦痛だろう。
パプーシャに追放が宣告される裁判だけでも残酷極まりないのに、読み書きを覚えたことに起因する災いが、なぜこうも執拗に描かれるのか。 |