筆者はこの一家の日常を観ながら、ジャーナリストのイザベル・フォンセーカが冷戦以後の東欧諸国に暮らすロマの現実を生き生きと描き出したルポルタージュ『立ったまま埋めてくれ ジプシーの旅と暮らし』のことを思い出していた。たとえば本書では、家庭に縛られ家事に追われる女と慢性的な失業状態にある男の関係が以下のように表現されている。
「女たちは何から何まですべて自分たちがやることを、少しも不公平だとは思っていなかった。(中略)さらにこの閉じられた世界で彼女たちは犠牲者だとも思っていなかった。正反対だった。いつまでも失業者のあふれる世界で、彼女たちにはきちんと役割があるという満足感さえあった。仕事がなく退屈しているのは男たちのほうだった。彼らは居心地が悪そうだった」
セナダは料理や洗濯などとにかくよく働き、堂々としているのに対して、鉄くず拾いの仕事しかなくて稼ぎの少ないナジフはどことなく肩身が狭そうに見える。それから一家が暮らす部屋の佇まいも印象に残る。フォンセーカによれば、ロマには、内部の「ズッホ(清浄)」と外部の「マリメ(汚れ)」を厳密に見極めるという伝統があり、家の外は雑然としていても、内はきれいにし、料理や洗濯にも気を使う。本書にはルーマニアのあるロマの部屋の写真が、「きちんと整頓された典型的なロマの住居内」というキャプションとともに掲載されているが、この一家の部屋はそれに通じるものがある。筆者はそんな日常の部分から主人公たちの世界に引き込まれた。
そして、もうひとつ見逃せないのが、タノヴィッチ監督の独自の構成によって紡ぎ出される物語の魅力だ。ナジフとセナダが車で病院に行く場面では、火力発電所の存在が私たちの目に焼きつく。巨大な冷却塔を備え、白い煙を吐き出す発電所は、最初の病院から産婦人科病院へ移動するときに現れ、その後、病院を往復するときに繰り返し映し出される。タノヴィッチ監督がそんな発電所のイメージと対置しているのが、薪割りのエピソードだ。この映画は薪を調達する場面から始まり、中盤でもナジフが途方に暮れつつも薪を割り、最後もそれで終わる。
薪と発電所はどちらも一家が生きていくためのエネルギーを供給する。だが、そのスケールはまったく違う。ナジフは鋸や鉈を使って自分の手で薪を調達するが、巨大な発電所はなにか得体の知れないもののように映る。それは一家の前に立ちはだかる壁を象徴している。さらにこの対置は、温度や光を意識させる表現とも無関係ではない。ナジフが車に乗ろうとするたびに処理しなければならない窓ガラスの凍結は冷たさを強調する。手術を終えたセナダが家に戻るときには、発電所の光景は姿を消し、曇り空に浮かぶ太陽がとらえられる。しかし、帰宅してみると光が奪われている。電気が止められているのだ。そこで私たちはまた、壁としての発電所を思い出すことになる。
『鉄くず拾いの物語』は、決して事実をリアルに再現しただけの告発の映画ではない。タノヴィッチ監督は、鋭い洞察、緻密な構成、象徴的な表現などを駆使して、巨大で冷酷な力に翻弄されるロマの一家のささやかな喜びや逞しさ、不安や苦悩を実に鮮やかに描き出しているのだ。
|