■コミュニティの崩壊、市民参加の衰退――『サムサッカー』■
マイク・ミルズ監督の『サムサッカー』では、いままさに増殖しつつあるサバービア(郊外住宅地)を舞台に、それぞれに悩みを抱えた登場人物たちが迷走を繰り広げる。
この映画を観ながら、筆者が思い出すのは、現代のアメリカにおけるコミュニティの崩壊や市民参加の衰退の実態を、膨大なデータを通して浮き彫りにしたロバート・D・パットナムの『孤独なボウリング』のことだ。人と人との繋がりが希薄になる要因には、郊外化も含まれ、その具体例として以下のような記述がある。
「民族誌学者のM・P・バウムガートナーがニュージャージーの郊外コミュニティに住んでいたとき、彼女が見いだしたのは一九五〇年代の古き郊外に起因する強迫的な連帯感よりも、細分化した孤立、自主規制、そして「道徳的最小主義」の文化だった。郊外の特徴というのは小さな街のつながりを求めるのではなく、内側に閉じこもり、近所に何も求めず、お返しも何もしないというものだった」
この映画にもそんな現実がある。登場人物たちが悩みを抱えても、相談したり、心を開ける人はいない。そうなると人ではないものに依存し、逃避するしかない。サムサッキング(指を吸う癖)≠ノ悩む主人公ジャスティンは、催眠術、向精神薬やマリファナに次々と救いを求め、挫折を繰り返す。年を取ることを受け入れられない彼の両親は、テレビの人気俳優に夢中になり、若さを証明するためだけに地元で開かれるレースに参加する。登場人物たちは、誰もが孤立し、依存し、逃避している。そして、ジャスティンがそのことに気づくとき、彼は、世界を相対的に見られるサムサッカーに成長しているのだ。
■9・11、新たな出発点――『ワールド・トレード・センター』■
9・11を題材にしたオリバー・ストーン監督の『ワールド・トレード・センター』も、『孤独なボウリング』の現実を踏まえてみると、ドラマがより印象深いものになるはずだ。この映画では、WTCで救出活動を行っている最中にビルが崩落し、瓦礫の下から奇跡の生還を遂げた二人の警官の実話が描かれる。
ストーンは、そんな実話を再現するドラマのなかで、9・11が背負ってしまった政治性を徹底的に払拭していく。WTCに激突する旅客機は、機影だけしか映し出されない。瓦礫の下敷きになった主人公たちは、まったく身動きがとれず、言葉で励ましあうことしかできない。彼らの帰りを待つ家族は、絶望感に打ちひしがれていく。一見すると、テロを大地震に置き換えても、その本質は変わらないように見える。だがそれでも、これはストーンらしい政治的な作品になっている。
日が落ち、二次災害の危険があるために救助隊は引き上げるが、彼らと入れ代わるように、一人の海兵隊員が瓦礫の山で捜索を開始する。彼がいなければ、警官たちは絶命していただろう。だが、海兵隊員にできることは、彼らを発見し、通報することだけである。知らせを聞いて駆けつけた消防士や救命士がそれぞれの役割を果たすことで、二人は生還する。ストーンは、9・11を人と人が繋がりを取り戻していく出発点と位置づけ、そこから失われたアメリカを再生しようとするのだ。
■異なる価値観から共有へ――『レディ・イン・ザ・ウォーター』■
さらに、M・ナイト・シャマラン監督の『レディ・イン・ザ・ウォーター』にも、それに通じる視点がある。この映画の舞台は、フィラデルフィア郊外にあるアパート。そこには、人種、階層、習慣、世代の異なる多様な家族や単身者が暮らしている。そして、重い過去を背負い、希望を失った孤独な管理人が、プールの底に潜んでいた謎の娘と出会ったとき、アパートの住人たちの世界が変化しだす。
娘は「ストーリー」と名乗り、住人たちは徐々に信じがたい物語に引き込まれていく。その物語のなかで彼女は、故郷に戻るために協力者を必要としているが、彼女を助けられるのは一人のヒーローではない。彼女が必要とする記号論者、守護者、職人、治癒者は住人のなかにいて、彼らがそれぞれの役割を果たすときに帰郷が叶えられる。だが、それが誰なのかはわからない。そんな状況のなかで、これまで異なる価値観を生きてきた住人たちは繋がり、世界を共有していくのだ。
■善意と繋がり――『ニキフォル 知られざる天才画家の肖像』■
そして最後に、クシシュトフ・クラウゼ監督の『ニキフォル』に注目しておきたい。この映画では、ポーランドで異彩を放った天才画家ニキフォルの晩年が描かれる。言語障害があり、読み書きもできなかった彼は、独学で画家となり、金銭や名声に興味を示すこともなくひたすら絵を描きつづけ、独自の画風を切り開いた。そんな主人公を80代のベテラン女優が見事に演じているのも大きな見所だが、筆者の関心は別のところにある。
この映画では、ニキフォルの姿勢がまったくブレないため、彼を取り巻く人間の態度や感情の変化が浮き彫りになる。役所で働きながら画家を目指し、やがてニキフォルの後見人となるマリアン(♂)は、最初は自分のアトリエに勝手に居座るニキフォルを歓迎していない。一方、彼の上司は極めて官僚的で打算に満ち、ニキフォルが世間で広く認知された画家だと知れば、マリアンに彼を支援するように命じ、肺結核だと知れば、追い出すように命じる。マリアンは、そんな上司とは対照的に、次第に信念を持って彼を支えるようになる。ニキフォルは、養蜂業者からマリアンへと、他者の善意に支えられて、生き延びてきた。
この天才画家が生きたのは冷戦の時代だが、クラウゼ監督は明らかに冷戦以後の現代を意識している。この映画は、対価を求めない善意から生まれる人と人との繋がりが、世界を変えていくのだということを力強く訴えかけているのだ。 |