『サムサッカー』のドラマには、そんな現実が反映されている。簡単にいってしまえば、登場人物が悩みを抱えていても、相談したり、心を開ける人がいないということだ。ジャスティンが、自分から誰かに悩みを打ち明けることはない。そして、支えになる人がいなければ、催眠術や向精神薬、マリファナなど、人ではないものに依存し、逃避するしかなくなる。
ジャスティンの両親は、息子に自分たちのことをファースト・ネームで呼ばせている。DadやMomでは年を感じるからだ。サバービアでは、すべてが新品の状態から生活が始まり、それがずっと続くかのような幻想が生まれる。その幻想は、人が年を取ることを許さない。もしこの両親と隣人との間に多様な繋がりがあれば、彼らは年を取る自分を受け入れられるかもしれない。しかし、彼らにも支えとなる人がいない。だから、母親は、テレビの人気俳優に夢中になり、かつてフットボール選手になる夢を怪我で断念した父親は、若さを証明するためだけに、地元で開かれるレースに参加する。
さらに、ジャスティンが好意を持つ同級生や歯列矯正医、ディベート部顧問の教師にも、同様のことがいえる。この映画の登場人物たちはみな、本来の自分と向き合うことを恐れ、他者を利用したり、人ではないものに依存することによって、逃避しているのだ。
ミルズが、そうした個人の有り様に強い関心を持っていることは、ウォルター・カーンの原作小説(残念ながら未訳)と対比してみることで、より明確になるだろう。
原作は、80年代に設定され、ジャスティンが、親指の代わりに口を埋めるものを探す冒険の物語になっている。彼は、風邪薬や向精神薬、酒、煙草、マリファナからフライフィッシングで釣った魚まで、片っ端から口に入れようと目論む。そんな物語には、かなり強烈なユーモアが散りばめられている。たとえば、映画には、ジャスティンが、催眠術によって守護獣を獲得するというエピソードが出てくるが、原作にはその続きがある。アウトドア派であるジャスティンの父親が、守護獣である鹿を捕らえ、その鹿は彼の目の前で悲惨な運命をたどるのだ。また、ジャスティンは、成り行きで赤ちゃん泥棒までやらかすことになる。
ミルズは、時代背景を現代に変え、強烈なユーモアや奇抜なエピソードを削り、ドキュメンタリー的な視点を持ったドラマを作り上げた。パットナムは『孤独なボウリング』のなかで、コミュニティの崩壊や市民参加の衰退が、70年代に始まり、80年代から90年代にかけて加速したと書いている。80年代に顕在化した現象は、いまや完全な日常と化し、この映画はそんな現代の日常に迫っていく。
ミルズがこだわるのは、閉塞的な日常を生きる人々のリアリティであり、決してそこから安易な答を引き出そうとはしない。現代では、誰もが孤立し、依存し、逃避している。ジャスティンがそのことに気づくとき、彼は、世界を相対的に見られるサムサッカーへと成長を遂げているのだ。
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