[以下、短いコメントになります]
前作『20センチュリー・ウーマン』のコメントでも書いたように、マイク・ミルズ監督が描こうとすることは、『サムサッカー』以来、基本的には変わっていない。彼がこだわるのは、閉塞的な日常を生きる人々のリアリティであり、決してそこから安易な答を引き出そうとはしない。現代では、誰もが孤立し、依存し、逃避している。彼は、登場人物たちの行動が傍目にはいかに奇妙に見えても、それらを多様性として肯定し、受け入れていく。
たとえば、前作に登場する写真家のアビーは、セックスするために人物や設定など架空の物語を必要としていた。本作では、ジョニーの妹ヴィヴと彼女の息子ジェシーが、”死んだ子の母親”と”親のない子”という架空の物語を必要とし、関係を築いている。傍から見ればかなり奇妙で、あまり気持ちよくない感じもするが、ミルズはそれも多様性のひとつとして肯定的に受け止める。
ミルズの作品で大きく変化してきているのは、身近な日常や悩める人々を描くスタイルだ。『サムサッカー』では、ドキュメンタリー的な視点を持ったドラマを作り上げていた。『人生はビギナーズ』では、時間軸を自在に操ることで、物語を構成する三つの流れを巧みに縒り合せていた。『20センチュリー・ウーマン』では、ドラマのなかに登場人物たちのプロフィールを挿入したり、未来から1979年という現在を振り返る視点を盛り込むなど、視点を重層化するような仕掛けが施されていた。
前作までは技巧の進化が目に見えていたが、本作では脚本が洗練され、美しいモノクロの映像と相まってそれが表に出なくなった。
ジョニーはジェシーに振り回され、理解に苦しむ。そのときに、「もっと普通でいいだろう」という。言葉にはしなくても、他の場面でも心のなかでそう思っている。しかし、普通などというものはない。それは大人が逃げ場にするような言葉だ。
本作で素晴らしいのは、ジョニーがデトロイト、ロサンゼルス、ニューヨーク、ニューオーリンズをめぐり、そこに暮らす子供たちにインタビューする姿が挿入されていることだ。そのインタビューからは子供たちの多様性が見えてくる。そしてジェシーの行動もその多様性のひとつといえる。
ジョニーは、母親の介護をめぐって妹のヴィヴと対立し、兄妹は疎遠になっているが、久しぶりに妹と会い、ジェシーをめぐって彼女と連絡を取り合うようになったジョニーは、彼女が少し変わったと感じる。それは、ヴィヴがジェシーを育てながら、「普通」に逃げるのではなく、多様性を受け入れるようになったからだろう。そして、ジョニーも多様性を受け入れることで変化していく。
ミルズは「普通」という基準に縛られることなく、人それぞれのありのままの姿を見つめ、受け入れる。だから登場する誰もが自然体でドラマに深みがある。美しいモノクロの映像や技巧を感じさせない洗練された脚本など、もはや円熟の境地に達しているといってもいい。 |