マイク・ミルズ監督の『サムサッカー』(05)は、ウォルター・カーンの同名小説の映画化で、『人生はビギナーズ』(10)は、ミルズと彼の父親との関係が物語のベースになり、本作『20センチュリー・ウーマン』(16)は、ミルズと彼の母親との関係がベースになっている。その題材は異なるが、ミルズが描こうとしていることは変わっていない。筆者は『サムサッカー』のレビューを以下のようにまとめた。
「ミルズがこだわるのは、閉塞的な日常を生きる人々のリアリティであり、決してそこから安易な答を引き出そうとはしない。現代では、誰もが孤立し、依存し、逃避している。ジャスティンがそのことに気づくとき、彼は、世界を相対的に見られるサムサッカーへと成長を遂げているのだ」
ミルズは、登場人物たちの行動が傍目にはいかに奇妙に見えても、それらを多様性として肯定し、受け入れていく。たとえば、本作で、ドロシアの家に間借りするアビーと、ドロシアの家を修繕しているウィリアムがセックスする流れになったとき、アビーには、セックスするのに人物や設定など架空の物語を必要とすることがわかる。ウィリアムはいささか戸惑いつつもその要求に従う。
本作では、というより本作でも、登場人物がそれぞれに相手を戸惑わせるような性質を持っていたり、行動をとったりするが、その背景にはそれぞれの事情があり、ミルズはそれらを肯定的にとらえている。簡単にいえば、普通など存在しないのだ。
ミルズが描こうとすることは本質的には変わっていない。だが、それを描くスタイルは変化している。『サムサッカー』では原作の80年代という背景を現代に変えて、強烈なユーモアや奇抜なエピソードは削り、ドキュメンタリー的な視点を持ったドラマを作り上げた。
『人生はビギナーズ』では、ミルズの分身オリヴァーとゲイをカミングアウトした父親ハルとの関係、かつての両親の生活や自分という存在を見つめなおすオリヴァーの回想、父親を癌で亡くした喪失感に苛まれる彼と風変わりな女性アナとの出会いという三つの流れが、時間軸を自在に操ることで絶妙に絡み合っていく。
そして本作の場合には、物語の大きな流れは維持しつつ、そこに細かな仕掛けを施している。たとえば、ドラマのなかに登場人物たちのプロフィールを挿入し、記録映像やモノローグを駆使して彼らの背景を説明する。さらに、設定は1979年でありながら、「まだみんなパンクの終焉もレーガンも知らない。子供たちを苦しめるのが、核戦争ではなく地球温暖化になることも。HIVはまだ想像の外。インターネットもまだ」とか「死ぬ前に、2000年問題に備え缶詰と水を買い置きした」というようなドロシアのモノローグが挿入されるなど、未来から1979年を振り返ったり、未来の出来事を語るような視点が盛り込まれている。
ミルズは、作品を追うごとにスタイルを進化させつつ、身近な世界、悩める人々に多様な光をあてている。 |