フィリップ・K・ディックと映画
――現実の崩壊が日常と化す時代


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(初出:「SFマガジン」2000年6月号)

 

 

 ガジェットが氾濫し、複雑に入り組む物語のなかで現実が揺らぎ、形而上的な観念の世界が広がっていくディックの小説を映画化するのは簡単なことではない。しかも映画の場合には、自主制作ででもない限り、小説よりもわかり易さや娯楽性が要求される。 そんななかで、脚本家や監督、その他のスタッフがディックの小説に共感し、そこから映画として何を描くのかというヴィジョンを明確にし、創造的な映像世界を構築していくのは、かなり難しいことだといえる。

 『ブレードランナー』(82)は間違いなく優れた映画だが、それは必ずしも『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の映画化として優れていることを意味するわけではない。この映画の場合は、ディックの世界に共感するというよりは、 原作なかにリドリー・スコットやシド・ミード、ダグラス・トランブルたちの感性を集約するのに適した設定があり、原作とは異質な、独自の美学に貫かれた世界を構築することに成功したというべきだろう。

 ディックの小説と映画というメディアの関係には、まだまだ隔たりがある。が、少なくともひと昔前に比べれば、新しい映画を創造するうえで、ディックの世界がインスピレーションの源になり、もっと受け入れられていくような状況が整いつつある。 現在では、 ”仮想現実” という言葉が巷のトレンドとしてはもはや死語といわれるほど、新しいメディアが日常生活や娯楽に浸透しているからだ。

  ■■『ブレードランナー』から『マトリックス』へ■■

 最初の『スター・ウォーズ』三部作が完結する80年代前半、『ブレードランナー』はカルト・ムーヴィーとして異彩を放つことによって、ディックの名前を広めるのに貢献した。ところがいまでは、 その『ブレードランナー』に通じるものがある『マトリックス』(99)の注目度が『エピソード1』(99)を凌ごうとしている。そこに時代の変化を見ることができる。この『マトリックス』と『エピソード1』という2本の映画で筆者が特に注目したいのが、それぞれの背景にある宗教観の違いだ。 2本の映画ではどちらも主人公が ”救世主” とみなされるが、その位置づけは対照的である。

 『エピソード1』のアナキン少年は、その出生や騎士団に招きいれられる経過など、いかにもキリストを連想させる。しかもルーカスの場合は、スター・ウォーズの最初の3部作の人物設定といい、円卓の騎士そのものである『エピソード1』のジェダイ評議会といい、 あるいは、聖杯探しが軸となる『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』といい、アーサー王伝説に大きな影響を受けている。そのアーサー王の物語には、修道士たちによって伝播される過程でキリスト教化されていったという歴史がある。ちなみに、ルーカスの映画では、 いつもヒロインが型にはまった飾りになり、生きた女性キャラクターが登場しないという欠点があるが、それは、このキリスト教化の過程で女性のキャラクターが削除されていったことと無縁ではないだろう。

 これに対して『マトリックス』では、現実に見えた1999年の世界が実は仮想現実で、人類はコンピュータが支配する2199年のディストピアのなかで追いつめられているという設定のもとに、主人公ネオが救世主とみなされていく。この設定は、ギブスンの『ニューロマンサー』、 そしてディックとグノーシス主義の世界と容易に結びつけることができる。そんな『マトリックス』が『エピソード1』を凌ぐことは、映画とディックの世界の距離が縮まりつつあることを意味している。

 

   《データ》
1982 『ブレードランナー』

1995 『SAFE』

1996 『ニルヴァーナ』

1997 『オープン・ユア・アイズ』
『ガタカ』
『CUBE』
『ゲーム』

1998 『トゥルーマン・ショー』

1999 『イグジステンズ』
『スター・ウォーズ エピソード1』
『マトリックス』

(注:これは厳密なフィルモグラフィーではなく、本論で言及した作品のリストです)

 

 


 
 
 
 


 ■■ディックと映画を結ぶ仮想現実■■

 実際この数年、『マトリックス』のように仮想現実がディックと映画を結ぶパイプになる作品が目立ってきている。

 たとえば、イタリアのガブリエレ・サルヴァトレス監督の『ニルヴァーナ』(96)。時代は2050年、主人公のゲーム・デザイナーが作った発売間近の新作ゲームのなかで、キャラクターがウイルスによって自我に目覚めてしまう。そのキャラクターは自分の創造主に対して、 生死が無限に繰り返される悪夢からの解放を要求する。そこで主人公は、彼を悪夢から解放し、さらに消えた恋人を探しだして自らも救いを見出すため、現実と仮想現実が交錯する混沌とした世界に踏みだしていく。

 サルヴァトレス監督は、この映画に関するコメントのなかでディックにも言及している。「誰が現実を定義できるだろうか?それがたった一つだと確信できるだろうか?そして我々が生きているのが本当に存在する唯一の世界だと言い切れるか。もしそれがもう一つの、 もっと現実的な世界の反射だとしたら?既視感とは前生の記憶か、それとも並行する生を覗いたものか?フィリップ・K・ディックはそれらを奥深くまで掘り下げた」(プレス資料より)。

 意外だったのは、アカデミー外国映画賞を受賞した『エーゲ海の天使』を筆頭に、これまでイタリア的なユーモアに満ちたドラマを作りつづけてきたサルヴァトレスが、突然このような作品を発表したことだ。以前の作品からは彼がディックの読者であることなど想像もつかなかったが、 筆者は昨年、彼に電話インタビューして、実は昔からディックのファンで、彼の作品を舞台化した経験もあることがわかった。

 サルヴァトレスにはディックと同じように東洋思想に深く傾倒しているところがあり、それは、次回作としてアーサー・C・クラーク賞を受賞したアミタヴ・ゴーシュの『カルカッタ染色体』の映画化を進めているところにも現れている。 インドを舞台にしたこの小説では、マラリアの感染をヒントに、肉体から肉体へと転移して生きつづける永遠の生命を可能にする計画をめぐって、登場人物たちが神秘的な闇の世界へと引き込まれていくのだ。

 それから、バラード、バロウズ、ディックなどの影響が色濃いクローネンバーグが、特にディックにオマージュを捧げている新作の『イグジステンズ』(99)。時代は近未来、主人公である天才ゲーム・デザイナーは、選ばれた参加者とともに新作ゲームの実演を始めようとしている。 ところがそこでテロが起こり、彼女は出口が見えない迷宮に引き込まれていく。

 人間の中枢神経に直接接続してプレイする体感ゲーム、胎盤やへその緒を思わせるゲーム端末やコードなど、生体と機械が融合したガジェットはいかにもクローネンバーグらしい。その体感ゲームの世界では、最終的なゴールというものがなく、局面は次々と変化し、創造者とプレイヤーの立場すら転倒しているところに、ディック的な展開が垣間見られる。

 というように日常化する仮想現実は、映画にディックの世界を引き込む窓口になっているのだが、これを逆に考えれば、ディックと縁がなくても、仮想現実に興味を持った監督が、いかにもディック的な世界を構築してしまってもおかしくはないだろう。

 スナッフ・フィルムをめぐるスリラーである『テシス』で監督デビューを飾ったスペインの新鋭アレハンドロ・アメナーバルが、それにつづいて作り上げた『オープン・ユア・アイズ』にはディック的な世界がある。これは目の前の現実が崩壊し、悪夢に変わっていく物語である。裕福でハンサムな25歳の主人公は、ふたりの女をめぐる恋愛のもつれから、 無理心中に巻き込まれ、醜い顔になってしまう。それでも恋人の愛を勝ち取り、最新の手術で奇跡的に顔も直ったかに見えるのだが、ある日突然、死んだはずの女が恋人と入れ替わり、彼は現実を見失い、追いつめられていく。この映画には、冷凍睡眠や記憶の操作といったアイデアも盛り込まれ、次第にSF的な展開をみせることになる。

 以前この監督にインタビューしたとき、彼は映画のテーマをこのように語っていた「このドラマは、世紀末に向かって現実と夢が識別できなくなりつつある状況を象徴している。インターネットや仮想現実は大きな可能性を秘めているけど、ある日気づいてみると現実より夢の方がよくなっているというようなことに対する警鐘を鳴らしたかった。 テクノロジーは諸刃の剣で、悪くすれば記憶を操作したり、医療が倫理から逸脱しかねないんだ」

 日常化する仮想現実によって、映画とディックの世界の距離が縮まりつつあることは間違いないが、筆者がもっと興味をおぼえるのは仮想現実とは違う結びつきだ。

 ■■戦争が終わり、世界の終わりが始まった■■

 ディックの小説は、50年代以降の政治と日常生活や消費社会の関係が実に巧みに描きだされているところにひとつの大きな魅力がある。冷戦や軍拡が激化する時代、アメリカ国民が共産主義思想に汚染されるのを防ぐためには、所有や消費の楽しみを国民に植えつけてしまうことが近道だった。そこで、郊外の幸福なアメリカン・ファミリーのイメージが生まれ、 人々は郊外へと誘導されていった。人々が逃避するパーキー・パット人形の幻想世界やユービック・スプレーの広告といった彼のアイデアには、そんな郊外のライフスタイルや消費まみれの社会が反映されている。

 ディックのこうした視点は、現代の日常を見直そうとする映画に大きなインスピレーションを与えようとしている。その好例といえるのが、ピーター・ウィアー監督の『トゥルーマン・ショー』だ。主人公の営業マンは、海に囲まれた風光明媚な郊外住宅地で妻と暮らしている。彼は満ち足りた生活を送っているかに見えるが、 些細な出来事がきっかけで周囲の世界が作り物であるような疑問を持ち、町を出ようとすると様々な妨害を受けることになる。実はこの町とその世界は巨大なドームのなかに作られたセットであり、彼は生まれたときから片時も途切れることなく放映されつづけるテレビ番組の主人公を知らぬままに演じつづけ、お茶の間の大スターになっているのだ。

 この映画を観て筆者の頭に最初に思い浮かんだのはディックの『時は乱れて』だった。このオリジナル脚本を手がけたアンドリュー・ニコルは、この小説にインスパイアされたのではないかと思うのだが、そんな印象を受けるのは、彼がこの映画の前に自ら脚本、監督を手がけたSF映画『ガタカ』によるところも大きい。 これは遺伝子工学が格段の進歩をとげている近未来世界の物語で、裕福な家庭では子供を作るにあたって受精の段階で劣勢の遺伝子を排除し、優れた遺伝子を備えた子供をデザインすることが日常化している。その結果、この社会ではデザインされた適正者が劣勢の遺伝子を持つ不適正者たちを支配している。ニコルは、そんな未来世界を50年代の建築やデザインでイメージ化する。

 この2本の映画では、SF的なアイデアを駆使することによって、50年代以降の郊外住宅地に象徴される人工的な生活環境が見事に異化される。そこには明らかにディックの視点に通じるものがある。

 さらに、必ずしもディックとの繋がりはないが、現代の日常生活をめぐって映画とディックの接点が広がるような視点を感じる映画にも注目しておきたい。

 まずトッド・ヘインズ監督の『SAFE』。これは、ロス郊外の高級住宅地に住む主婦が、化学物質過敏症に襲われる恐怖を描いた作品のように見えるが、そのドラマには政治も含めた別の視点が盛り込まれている。この主人公は、貧富の差が拡大し、都市部でマイノリティが不満を爆発させる80年代という時代のなかで、安全を求めて郊外の奥へ奥へと逃避し、 豪華な屋敷や内装で防備を固めているが、その物の豊かさが彼女に牙をむく。そこで彼女は物を放棄し、コミューンの一員となり宗教的な連帯感のなかで自分は救われたと信じようとする。しかし ”安全” への盲信は何ら変わっていない。彼女はその安全を守り通すために自己を捨てていくことになるのだ。

 一方、ある意味でこの『SAFE』とまったく対照的な視点で、現代の消費社会を浮き彫りにするのが、デイヴィッド・フィンチャー監督の『ゲーム』だ。この映画で主人公は、限りなく現実に近い虚構のゲームを通して超越的な体験をして、自分が変わる。一企業が仕組んだゲームであっても、実際にそれで人間が変われば、 ゲームが神にもなってしまうことをその企業の名前が暗示している。消費者娯楽サービスの略であるCRSはキリスト(CHRIST)に通じているからだ。

 そして最後にカナダのヴィンチェンゾ・ナタリ監督の『CUBE』。この映画では、お互いに面識もなく、年令も職業もまったく違う登場人物たちが、なぜそこに閉じ込められているのかも見当がつかないまま、必死のサバイバルを繰り広げる。ディックの『死の迷宮』にも似たこの物語には、やはり現代の日常が反映されている。デイヴィッド・クローネンバーグも含めてカナダの監督たちが興味深いところは、物語の基盤となる歴史や伝統などが希薄な土壌のなかで、それぞれのスタイルで物語が欠落した世界を生きる人間を描きだすところにあり、そのサバイバルからは物語を失った現代人の内面の恐怖が見えてくる。

 ディックの小説は、こうした映画から浮かび上がる日常の崩壊感覚がリアルになればなるほど大きな意味を持ち、映画に新たな世界を切り開いていくことになるだろう。

(upload:2000/12/27)
 
 
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