スペインの新鋭アレハンドロ・アメナーバルの新作『アザーズ』は、第二次大戦末期のイギリスの孤島を舞台にしている。映画の冒頭では、霧がたちこめる殺伐とした風景のなかに、古色蒼然とした屋敷が浮かびあがる。異様な静けさに包まれたその屋敷には、戦地に赴いた夫の帰りを待つ妻とふたりの子供たちが暮らしている。
子供たちには重度の光アレルギーがあり、あらゆる窓は分厚いカーテンで閉ざされている。そして、屋敷に三人の使用人がやって来たときから、無人のはずの部屋に足音が響いたり、ピアノがひとりでに鳴りだすなどの奇妙な現象が起こるようになり、屋敷に何者かが潜んでいることが明らかになる。
この映画には意外な結末が待ち受けているので、その内容についてあまり詳しく踏み込むつもりはない。但し、アメナーバルはそれが少しずつわかってくるようなヒントをドラマに散りばめているし、意外な真相が明らかになればそれまでというトリッキーな作品でもない。
アメナーバルの長編デビュー作『テシス・次に私が殺される』は、本物の殺人を記録したスナッフ・フィルムをめぐるスリラーだった。映画学校の学生で、「映像における暴力」をテーマにした論文を書いているヒロインは、資料となる映像を探し回るうちに、スナッフ・フィルムを発見してしまい、命を狙われることになる。
二作目の『オープン・ユア・アイズ』では、裕福でハンサムな25歳の主人公が、ふたりの女をめぐる恋愛のもつれから無理心中に巻き込まれ、醜い顔になってしまう。それでも恋人の愛を勝ちとり、最新の医療技術で奇跡的に顔も元通りになるが、ある日突然、死んだはずの女が恋人と入れ替わり、彼は現実を見失っていく。この映画には、冷凍睡眠や記憶の操作といったアイデアも盛り込まれ、次第にSF的な展開をみせる。
現代的なガジェットを駆使し、謎をめぐって二転三転する物語を紡ぎだすこれまでの二作品と、ゴシック・ホラー風の新作は、一見まったく異なるタイプの作品のように見える。しかし、それはあくまで表面的な違いであって、この三作品は、共通する感性とスタイルで貫かれている。ここではそれを五つのポイントに分けて探ってみることにする。
まず第一に、見えないものの効果があげられる。『テシス』で、謎のビデオを発見したヒロインは、それを持ち出したものの、ひとりで見るのが恐ろしいために、画面を真っ暗にして音だけを聞く。その音は、見えない映像に対する彼女と観客の想像力をかきたてる。
『オープン・ユア・アイズ』で、過去の出来事を医師に語る主人公は、最後までマスクをとろうとせず、その中身に対する観客の先入観はドラマの展開とともに変化していく。『アザーズ』では、閉ざされた屋敷のなかにはラジオも電話もなく、またヒロインには部屋を行き来するたびにドアに鍵をかける習慣があり、見えないものがたてる音が異様な響きを持つことになる。
第二に、個人の感覚や先入観を意識させる演出がある。『テシス』には、ヒロインと彼女に協力することになるオタクの学生が、ともにウォークマンをしたまま目と目を合わせる場面がある。この場面では映像が彼と彼女に切り替わるたびに、音楽もそれぞれが聴いているヘヴィメタとクラシックにかわる。
『オープン・ユア・アイズ』には、主人公と彼が恋に落ちるソフィアが、お互いの似顔絵を描く場面がある。こうした場面では、個人個人の感覚の違いや先入観が描き出され、そのささいなズレがドラマのなかで次第に広がり、現実世界との隔たりを生みだすことになる。そして『アザーズ』でも、ヒロインと使用人たちは、ひとつの世界を異なる視点から見ているのだ。
第三に、生死の境界をめぐるドラマがある。『テシス』で、暴力的でグロテスクな映像を蒐集するオタクの学生や、大衆の欲望を無批判に肯定し、スナッフ・フィルムに関わる教授の存在は、生死の境界を曖昧にしていく。『オープン・ユア・アイズ』では、主人公の前に死んだはずの人間が現れたかと思えば、生きている人間が忽然と消えてしまう。『アザーズ』でも、生死の境界が静かに揺らいでいく。
第四に、生死の境界とも結びつく罪悪感がある。『テシス』の冒頭で、地下鉄の人身事故に遭遇したヒロインは、後ろめたい気持ちを強く感じつつも、吸い寄せられるようにゆっくりと線路際に歩み寄っていく。そんな彼女は、スナッフ・フィルムを手に入れてしまうことで、彼女もまったく無縁とは言い切れない人間の欲望に翻弄されていくことになる。『オープン・ユア・アイズ』で、主人公の前に死んだはずの女が現れるのは、彼の顔が元通りになった後のことであり、この出来事は彼の心に潜む罪悪感と結びついている。
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