『オープン・ユア・アイズ』では、主人公が恋愛のもつれから信じられないような悪夢に引き込まれ、さらには冷凍睡眠技術や未来の先端医療といったSF的展開を見せる。様々な解釈が可能な作品だが、彼は現実が崩壊するようなこの映画のヴィジョンについてこう語る。
「このドラマは、世紀末に向かって現実と夢が識別できなくなりつつある状況を象徴している。インターネットやヴァーチャル・リアリティは大きな可能性を秘めているけど、ある日気づいてみると現実より夢の方がよくなっているというようなことに対する警鐘を鳴らしたいと思った。テクノロジーは諸刃の剣で、悪くすれば記憶を操作したり、医療が倫理から逸脱しかねないんだ」
確かに彼の視点はグローバルであり、映画は壮大なテーマを扱っているが、彼はあくまで身近な次元をベースとしてそんなテーマを切り開こうとする。たとえば筆者が面白いと思うのは、主人公の元の顔、醜い顔を隠すためのマスク、新しい顔、あるいは、公園でパフォーマンスを演じるソフィアのメイクの顔などが交錯するうちに、その境界が曖昧になり、顔そのものがマスクに見えてくることだ。
「現代では外見ばかりを重視する傾向がある。人がそんな表層に騙されていくということが、『テシス』と新作に共通するテーマなんだ。新作はそんな外見重視の風潮の批判になっている。主人公は、自分の顔が醜くなったときも、新しい顔を手に入れたときも、同じように自分がどう見られるかという強迫観念にとりつかれている。そして最後には、夢の世界の住人となって美人と暮らすか、現実を選ぶかという選択を迫られるんだ」
おそらく本人は否定するだろうが、筆者は彼の作品にはスペイン的な要素があるように思う。スペイン映画といえば、ペドロ・アルモドバルの作品を筆頭にマチスモ(男性優位主義)の伝統が無視できないテーマになっている。彼の作品も、『テシス』では殺人を記録したスナッフ・フィルムの真相を追求するヒロインが、ふたりの対照的な男のあいだで翻弄され、新作でも主人公がふたりの女のあいだで悪夢に引き込まれるというように、男と女の関係がユニークな世界の出発点になっているのが印象に残る。特に新作のマスクのイメージは、主人公の意識に植え付けられたマチスモを象徴しているように見えるのだ。
「スペインではあるフェミニストの人々が「テシス」を女性蔑視の映画だと批判した。苦境におちいったヒロインが愚かな行動ばかりとって、バカに見えるというんだ。しかし監督のぼくにいわせれば、彼女が自分の力で謎を解いていくんだ。それから、新作のマスクのイメージとマチスモに繋がりがあるとは思っていないけど、映画の冒頭で主人公が女を弄んでいる姿にマチスモの要素があるといわれれば、確かにあると思う」
この答は非常に面白かった。彼の言葉を筆者なりに解釈すれば、『テシス』は、ふたりの男のあいだで翻弄されるヒロインが、自力で苦境を乗り越え、真実にたどりつく作品であり、この新作は、主人公のマチスモ的な体質が招いた悪夢のなかで、彼が真実を追い求めていく作品ということになる。つまりアメナーバル監督は、マチスモというスペイン的な要素を解体していくドラマを経て、グローバルなテーマを切り開いているように思えるということだ。そういう意味で彼は、まさにスペイン映画の新世代といえるのではないだろうか。 |