SF小説に縁のない人にはとんでもない話に思えるだろうが、この小説の面白さは必ずしも終盤の意外な真相にではなく、主人公を通して50年代の世界が二重の意味で崩壊していくところにある。この物語の50年代は作り物だから崩壊するのは当然だが、ディックは主人公に、彼の記憶のなかにある少年時代の平穏な50年代を中年の視点で再体験させることによって、彼が本物の50年代の日常そのものに違和感を持つ姿を描きだす。
彼の周りでは、男たちは独創的な考えをまったく持たず、すべて自分の上に立つ人間の真似ばかりして昇進を狙い、女たちは「ベター・ホーム・アンド・ガーデン」誌を読んで、ガーデンパーティや中庭でのバーベキューができる身分になりたいという願望で頭がいっぱいになっている。人々は50年代のなかで、画一化を強いられ、個性を失っているのだ。
アンドリュー・ニコルの脚本をピーター・ウィアーが見事に視覚化した『トゥルーマン・ショー』の世界は、「アイ・ラブ・ルーシー」や『時は乱れて』と繋がりを持っている。主人公のトゥルーマンは、保険会社に勤める極めて人当たりのよい営業マンで、海に囲まれた風光明媚なサバービアで妻と暮らしている。彼はこの町で満ち足りた生活を送っているかに見えたが、やはり些細な出来事がきっかけで周囲の世界が作り物であるような疑問を持ち、町を出ようとすると様々な妨害を遭うことになる。
実はトゥルーマンが住む町とその世界は巨大なドームのなかに作られたセットであり、彼は生まれたときから片時も途切れることなく放映されつづけるテレビ番組の主人公を知らぬままに演じつづけ、ドームの外の世界ではお茶の間の大スターになっていた。
この荒唐無稽な設定が視覚的に異様な説得力を持つのは、そうした郊外の生活が、もともとテレビのドラマや広告といった作られたイメージのなかで暮らしたいという願望から生み出されてきたからだ。そして、トゥルーマンが大スターになるのは、現実には必ずしも幸福とはいいがたいそんな世界を、彼にとっては紛れもない現実でありながら、まるでホームコメディのように生きる姿が視聴者の共感を呼ぶからである。
しかし、そんな彼が真実に近づいていくに従って視聴者たちの感情や心理は確実に変化していく。なぜなら彼の現実が虚構に変わってしまうということは、視聴者にとってみれば、これまで共感を呼ぶ現実だったものが彼らを無意識のうちに抑圧していた虚構に変わることを意味するからだ。そこで視聴者たちは、テレビのなかで何とか偽りの世界を脱出しようとする主人公に声援を送り出す。その瞬間に、彼らのなかに埋め込まれていたサバービアの幸福なアメリカン・ファミリーの神話は崩壊していくのだ。
さらに、アンドリュー・ニコルが、この映画の前に脚本を手がけ自ら監督したSF映画『ガタカ』を観ると、彼の脚本の狙いがより明確になるだろう。『ガタカ』は、遺伝子工学が格段の進歩をとげている近未来世界の物語で、裕福な家庭では子供を作るにあたって受精の段階で劣勢の遺伝子を排除し、優れた遺伝子を備えた子供をデザインすることが日常化している。その結果、この社会ではデザインされた適正者が劣勢の遺伝子を持つ不適正者たちを支配している。主人公は自然に生まれ育った不適正者で、適正者だけを集めて育成するガタカ社に紛れ込み、宇宙飛行士となってそんな世界を出て行こうとする。
この近未来世界の設定はサバービアを連想させる。サバービアとは、人種や犯罪、過密といった問題を排除した人工的な世界で、人々はそんな完全にコントロールされた環境のなかで子供を育てようとする。『ガタカ』の世界では、いくら優れた遺伝子を備えているとはいえ適正者はあくまでテクノロジーの産物であり、結局は均質化し、個性を失い、自分の意志で何かを変えるという意思をまったく持たなくなってしまうが、そんな現実もサバービアの世界に通じている。『トゥルーマン・ショー』の主人公は、まさにそんな究極の人工的な世界で純粋培養されてきたことになるからだ。 |