トゥルーマン・ショー
The Truman Show


1998年/アメリカ/カラー/103分/ヴィスタ/ドルビーDTS
line
(初出:「SWITCH」1998年、抜粋のうえ若干の加筆)

 

 

サバービアの幸福なアメリカン・ファミリー神話の崩壊

 

 ピーター・ウィアー監督の『トゥルーマン・ショー』でまず注目しなければならないのは、アンドリュー・ニコルが手がけたユニークな脚本だ。この脚本は筆者に、アメリカの50年代に深く関わるふたつのものを思い出させる。

 ひとつは、ルシル・ボールのホームコメディ「アイ・ラブ・ルーシー」だ。この番組については、デイヴィッド・ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』に詳しい。「アイ・ラブ・ルーシー」は、1951年10月15日から始まり、翌年の4月7日には視聴者数が1060万人に達した。現代の感覚ではその数字の意味を想像するのは難しいが、ひとつのテレビショーがそれほどの視聴者を獲得したのはテレビ番組史上、初の出来事で、この番組の人気はテレビ業界全体の業績を躍進させたという。

 その人気の秘密はどこにあったのか。『ザ・フィフティーズ』にはこんな記述がある。「現実生活と幻想との境界線を曖昧にさせるという新しいメディアのもつ独特の力を、ルシル・ボールの登場以上に端的に示した例はない

 「アイ・ラブ・ルーシー」では、ルシル・ボールとデジー・アーネスという本物の夫婦が、番組のなかでも夫婦を演じていた。そして、ルーシーが妊娠すると、それがそのまま番組のシナリオに盛り込まれ、視聴者は、ルーシーのお腹が膨らみ、シナリオと実生活が並行して進んでいくのを見つめていた。ルーシーは出産予定日にスケジュール通りに子供を出産し、テレビの「ルーシー、病院に行く」の回の視聴率は、68%に達した。それは、翌日に行われたアイゼンハワーの大統領就任式の視聴者数の2倍だった。

 番組のなかの舞台の変更も興味深い。最初の数年間は都会を舞台としていたが、視聴率に多少の陰りが見えはじめたとき、ルーシーとデジーは、多くの視聴者が転居したサバービア(郊外住宅地)に移ることになった。隣家のフレッドとエセルも行動をともにし、二家族はコネティカット州ウェストポートに引っ越した。

 但しもちろん、実生活と番組がすべて同じだったわけではない。それは夫婦の子供の発言によく表れている。「自分の両親がテレビの「アイ・ラブ・ルーシー」に出てくることは、かなり小さい頃から気づいていた……だが、テレビに映る情景と、現実にうちで起こっていることとは、まるで別ものだった。あの頃はつくづく辛かった――毎週、テレビでは、うちの両親のように見える二人が愉快な騒動を起こしている。ところが、同じ二人が、実際にはもがき苦しみ、不幸のどん底を這いずり回っていた。しかも、二人とも相手のほうが悪いのだと僕と妹に思い込まそうとしていた

 そしてもうひとつは、SF作家のフィリップ・K・ディックが1959年に発表した『時は乱れて』だ。物語の時代設定は1959年、主人公の中年男はアメリカのとあるサバービアに弟夫婦と暮らし、新聞の懸賞クイズに毎日勝ちつづけ、地元ではちょっとした有名人になっている。そんな彼は、些細な出来事から周囲の世界がどこか作り物であるような疑問を持つ。そこで彼が町を出てみようとすると警察に追われるはめになり、次第に真相が明らかになる。

 実は彼が生きている本当の時代は1997年で、主人公は地球と月植民地のあいだで進行中の戦争で重要な任務を遂行していたのだが、その重圧が原因で意識が1959年の平穏な少年時代に退行してしまったため、国家が彼の周囲に50年代の世界を完璧に再構築し、クイズに偽装して極秘に任務を続行させていたのだ。


◆スタッフ◆
 
監督   ピーター・ウィアー
Peter Weir
脚本 アンドリュー・ニコル
Andrew Niccol
撮影 ピーター・ビジウ
Peter Biziou
編集 ウィリアム・M・アンダーソン、リー・スミス
William M. Anderson, Lee Smith
音楽 ブルクハルト・ダルウィッツ
Burkhard Dallwitz
 
◆キャスト◆
 
トゥルーマン・
バーバンク
  ジム・キャリー
Jim Carrey
クリフトフ エド・ハリス
Ed Harris
メリル・バーバンク/ハンナ・ジル ローラ・リニー
Laura Linney
マーロン/
ルイス・コルトラン
ノア・エメリッヒ
Noah Emmerich
ローレン・ガーランド/シルビア ナターシャ・マケルホーン
Natascha McElhone
ディレクター ポール・ジアマッティ
Paul Giamatti
-
(配給:UIP )
 
 
 

 SF小説に縁のない人にはとんでもない話に思えるだろうが、この小説の面白さは必ずしも終盤の意外な真相にではなく、主人公を通して50年代の世界が二重の意味で崩壊していくところにある。この物語の50年代は作り物だから崩壊するのは当然だが、ディックは主人公に、彼の記憶のなかにある少年時代の平穏な50年代を中年の視点で再体験させることによって、彼が本物の50年代の日常そのものに違和感を持つ姿を描きだす。

 彼の周りでは、男たちは独創的な考えをまったく持たず、すべて自分の上に立つ人間の真似ばかりして昇進を狙い、女たちは「ベター・ホーム・アンド・ガーデン」誌を読んで、ガーデンパーティや中庭でのバーベキューができる身分になりたいという願望で頭がいっぱいになっている。人々は50年代のなかで、画一化を強いられ、個性を失っているのだ。

 アンドリュー・ニコルの脚本をピーター・ウィアーが見事に視覚化した『トゥルーマン・ショー』の世界は、「アイ・ラブ・ルーシー」や『時は乱れて』と繋がりを持っている。主人公のトゥルーマンは、保険会社に勤める極めて人当たりのよい営業マンで、海に囲まれた風光明媚なサバービアで妻と暮らしている。彼はこの町で満ち足りた生活を送っているかに見えたが、やはり些細な出来事がきっかけで周囲の世界が作り物であるような疑問を持ち、町を出ようとすると様々な妨害を遭うことになる。

 実はトゥルーマンが住む町とその世界は巨大なドームのなかに作られたセットであり、彼は生まれたときから片時も途切れることなく放映されつづけるテレビ番組の主人公を知らぬままに演じつづけ、ドームの外の世界ではお茶の間の大スターになっていた。

 この荒唐無稽な設定が視覚的に異様な説得力を持つのは、そうした郊外の生活が、もともとテレビのドラマや広告といった作られたイメージのなかで暮らしたいという願望から生み出されてきたからだ。そして、トゥルーマンが大スターになるのは、現実には必ずしも幸福とはいいがたいそんな世界を、彼にとっては紛れもない現実でありながら、まるでホームコメディのように生きる姿が視聴者の共感を呼ぶからである。

 しかし、そんな彼が真実に近づいていくに従って視聴者たちの感情や心理は確実に変化していく。なぜなら彼の現実が虚構に変わってしまうということは、視聴者にとってみれば、これまで共感を呼ぶ現実だったものが彼らを無意識のうちに抑圧していた虚構に変わることを意味するからだ。そこで視聴者たちは、テレビのなかで何とか偽りの世界を脱出しようとする主人公に声援を送り出す。その瞬間に、彼らのなかに埋め込まれていたサバービアの幸福なアメリカン・ファミリーの神話は崩壊していくのだ。

 さらに、アンドリュー・ニコルが、この映画の前に脚本を手がけ自ら監督したSF映画『ガタカ』を観ると、彼の脚本の狙いがより明確になるだろう。『ガタカ』は、遺伝子工学が格段の進歩をとげている近未来世界の物語で、裕福な家庭では子供を作るにあたって受精の段階で劣勢の遺伝子を排除し、優れた遺伝子を備えた子供をデザインすることが日常化している。その結果、この社会ではデザインされた適正者が劣勢の遺伝子を持つ不適正者たちを支配している。主人公は自然に生まれ育った不適正者で、適正者だけを集めて育成するガタカ社に紛れ込み、宇宙飛行士となってそんな世界を出て行こうとする。

 この近未来世界の設定はサバービアを連想させる。サバービアとは、人種や犯罪、過密といった問題を排除した人工的な世界で、人々はそんな完全にコントロールされた環境のなかで子供を育てようとする。『ガタカ』の世界では、いくら優れた遺伝子を備えているとはいえ適正者はあくまでテクノロジーの産物であり、結局は均質化し、個性を失い、自分の意志で何かを変えるという意思をまったく持たなくなってしまうが、そんな現実もサバービアの世界に通じている。『トゥルーマン・ショー』の主人公は、まさにそんな究極の人工的な世界で純粋培養されてきたことになるからだ。

《参照/引用文献》
『ザ・フィフティーズ(上)』デイヴィッド・ハルバースタム●
金子宣子訳(新潮社、1997年)
『時は乱れて』フィリップ・K・ディック●
山田和子訳(サンリオSF文庫、1978年)

(upload:2009/06/19)
 
 
《関連リンク》
サバービアの憂鬱――アメリカン・ファミリーの光と影 ■
フィリップ・K・ディック01――戦争が終わり、世界の終わりが始まった ■
フィリップ・K・ディック02――消費社会が作り上げる偽りの世界 ■
フィリップ・K・ディックと映画――現実の崩壊が日常と化す時代 ■
クリストス・ニク 『林檎とポラロイド』 レビュー ■
アリ・フォルマン 『コングレス未来学会議』 レビュー ■

 
 
amazon.co.jpへ●
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp