「ここでもまた、新しいナショナリズムの主要な特徴が鮮明になる。他の諸政策と同様、言語政策においても、州政府が教会に取って代わった。以後、重視される価値はもはや神聖なものでなく、世俗的なものであった。そして、その結果は中央[州]集権化と均質化であった。一部には伝統的な価値に対する固執が依然としてあったにもかかわらず、ケベック社会は過去の独自性を犠牲にしてまでも現在、そして未来へと邁進しようとしていた」
ちなみに、国連PKO司令官としてルワンダのジェノサイドに翻弄されたロメオ・ダレールもまたケベックの出身で、その著書『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか』のなかで、静かな革命について以下のように回想している。
「私はケベックの静かな革命の世代であり、両親と同じように、六〇年代初頭にケベックの首相であったジャン・ルサージュが唱えた構想の熱烈な信者であった。二〇年近くにわたってケベック州を自分の個人的領地のように経営したモーリス・デュプレシが敗れて、ケベックは暗い、四〇年代五〇年代の教会による分断[カトリック教会による支配]を、完全に時代に合ったように思える大胆さとエネルギーで、打ち破った。学校で私は、教師たちが先頭にたつ大きな運動『正しいフランス語』に加わった。それはフランス語の尊重、さらには崇拝を強調するものであり、フランス語に忍び寄りつつある英語化に対する攻撃であった。私の世代は、カナダの内部でのフランス語系カナダ人少数派の権利に対する平等な承認を求めることに、自信をもつと同時に情熱を傾けた」
静かな革命に関するこうした記述を踏まえてみると、このドラマがより興味深いものになるはずだ。まず、ザックの誕生日を60年12月25日にしたことの意味は大きい。主人公の存在と教会や宗教、キリストを結びつけることが容易になり、新旧の価値観を対比できる。また、多くの登場人物たちが集まるパーティを、様々な変化を描くうえで大いに利用することができる。
たとえば、パッツィ・クラインが愛聴盤の父親は、英語化しているように思われるかもしれないが、そんなことはない。彼はクリスマス・パーティになると、家族がうんざりしているのも気にせず、必ずシャルル・アズナブールを熱唱する。
一方、ザックは新しい文化にのめり込んでいく。7歳のザックが一気に15歳の彼に変貌を遂げる瞬間には、ピンク・フロイドの<シャイン・オン・ユー・クレイジー・ダイアモンド>(これも“クレイジー”繋がりといえる)が流れ、部屋の壁にはアルバム『狂気』のジャケットのプリズムが描かれている。教会のミサでザックが見る幻想も印象深い。ローリング・ストーンズの<悪魔を憐れむ歌>に合わせて、聖歌隊や参列者がコーラスに加わり、ザックが宙に浮いていく。これは、伝統と世俗における聖なるものをユーモラスに対置しているともいえる。ロックの洗礼を受けながらも、宗教的な罪悪感を拭い去ることができないザックは、映画の終盤でキリストの物語をなぞるように、北アフリカの砂漠を彷徨うことになる。
だからこの『C.R.A.Z.Y.』は、同性愛に目覚めるザックとホモフォビアの父親の関係を中心に、家族の変遷を描いただけの映画ではない。ザックと父親には、静かな革命をめぐる新旧の価値観が反映され、より大きな歴史の流れのなかで世代間の対立と和解が描き出されているのだ。 |