カラカラ
Karakara  Karakara
(2012) on IMDb


2012年/日本=カナダ/カラー/104分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:『カラカラ』劇場用パンフレット)

 

 

禅の世界に通じる喪失と再生の物語

 

 新しい世紀に入って再び日本で映画を作るようになったクロード・ガニオン監督にとって、『カラカラ』(12)は、『リバイバル・ブルース』(03)、『KAMATAKI‐窯焚‐』(05)につづく新作になる。この三作品を対比してみると、新作では前の作品に見られたモチーフがかたちを変えて引き継がれ、掘り下げられていることがわかる。

 『リバイバル・ブルース』に登場する健は、かつて親友の洋介とバンドという夢を追いかけたが、堅実な人生を歩む決断をしたことで夢は終わりを告げた。この映画ではそんな健が、末期癌の洋介の最期を看取ることになる。『カラカラ』の主人公ピエールは、二年前に親友を喪った。かつて二人にはソーラーハウスという大きな夢があったが、ピエールはそれを捨て、安定や社会的地位を選んだ。

 『KAMATAKI‐窯焚‐』に登場する日系カナダ人の若者ケンは、父親を喪った哀しみから立ち直れず、自殺をはかった。そんな彼は陶芸家である叔父の窯元を訪ね、信楽焼の陶器に言葉では表現しがたいなにかを感じたことがきっかけで、再生を果たしていく。『カラカラ』にも異文化との出会いがある。喪失と死の不安に苛まれるピエールは、沖縄県立博物館で目にした人間国宝・平良敏子が織った芭蕉布になぜか強く惹きつけられていく。

 では、前の作品に見られたモチーフは、『カラカラ』でどのように掘り下げられているのか。まず印象に残るのが、タイトルにもなっている泡盛を入れる酒器だ。純子は、昔は陶器の玉をなかに入れて、空になると「カラカラ」と音をたてたと説明する。

 この酒器はピエールと純子の有り様を象徴している。ピエールは結婚や仕事など、見栄えにとらわれて人生を送ってきた。純子は、夫と息子それぞれと向き合うのではなく、家族という枠組みばかりにとらわれ、それを守ろうとしている。つまり、二人とも表面やかたちに縛られ、内実を見失っているのだ。

 しかし、『KAMATAKI‐窯焚‐』のあるエピソードを思い出すなら、それは転機にもなる。陶芸家の叔父は、アメリカからやって来た独善的な陶芸家に、湯呑から茶が溢れる様を見せて、「杯を空にせよ」という仏教の説話を引用する。つまり、知恵などで器が一杯になってしまっていれば、なにも学べないということだ。そういう意味では、ピエールと純子には、ゼロからなにかを学ぶ機会が訪れているともいえる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   クロード・ガニオン
Claude Gagnon
撮影 ミシェル・サン=マルタン
Michel St. Martin
編集 クロード・ガニオン
Claude Gagnon
音楽 新良幸人
Yukito Ara
 
◆キャスト◆
 
ピエール   ガブリエル・アルカン
Gabriel Arcand
純子 工藤夕貴
Youki Kudoh
明美 富田めぐみ
Megumi Tomita
健一 あったゆういち
Yuichi Atta
銘苅おばあちゃん 諸見敏
Toshi Moromi
ブライアン ジョン・ポッター
John Potter
(特別出演) 平良敏子
Toshiko Taira
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(配給:ククルビジョン/ビターズ・エンド)
 
 
 

 それぞれに内面でカラカラと音をたてている二人は、旅のなかで変化していく。それがどんな変化なのかといえば、筆者には、芭蕉布に集約されているように思える。

 ドラマと窯焚がパラレルな関係にあった『KAMATAKI‐窯焚‐』とは違い、この映画で芭蕉布が前面に出てくるのは終盤の限られた時間に過ぎないし、ピエールが作業に参加するわけでもない。にもかかわらず、糸芭蕉の原木を切り倒し、皮を剥ぎ、短冊状に割き、煮出して繊維をほぐし、糸にして染色し、織って独自のテクスチャーを獲得する過程を目にすると、そこに二人の主人公の変化を重ねてみたくなる。

 たとえば、ピエールがフランス語で歌を口ずさむ場面に注目してほしい。このドラマは英語の会話で展開していくが、ピエールの心の琴線に触れる母語はフランス語であり、後半ではフランス語の歌によって彼の変化が巧みに表現されている。彼が自転車で島を回りながら最初に歌を口ずさむときには、まだ心を閉ざしているので哀しみだけがこみ上げてくる。

 しかし、純子に心情を吐露したあとで歌うときにはトーンが変わっている。しかも純子も一緒に歌う。もちろん彼女の方も変化していて、歌詞の意味を理解することなどよりも、一緒に歌うことが大切になっている。そこには、英語の会話やセックスとは違う、より親密な関係が現れている。そして、ピエールが一人で車を運転しながら口ずさむときには、その歌はとても軽やかになっている。

 さらに、沖縄出身の新良幸人が手がけた音楽にも同じことがいえる。三弦、三線、アコースティックギター、ベースなど、弦を中心とした音楽は、最初は個人の心情を表すようにメロディが際立つが、芭蕉布の場面になる頃には、軽やかなリズムを獲得し、美しいハーモニーを生み出している。

 筆者はそんな映画を観ながら、枡野俊明の『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』のことを思い出していた。そこには、大乗仏教の根幹を成す「空」の思想と禅について以下のように書かれている。

すべてのものはお互いに影響しあい、相依相関の関係において成り立っている。わかりやすくいえば、自分が幸せでありたいと願えば、他人も幸せでなければならない。そのために尽くすことが、そのまま自分の幸せにつながるという考え方である。この大乗の思想によって確立されたのが禅であり、禅では、この「空」の思想を、理屈で解釈するのではなく、実践的に体得し、日常生活に活かしていこうとする

 ガニオン監督が紡ぎ出す喪失と再生の物語は、間違いなく禅の世界に通じている。

《参照/引用文献》
『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』枡野俊明●
(日本放送出版協会、2005年)

(upload:2013/05/09)
 
 
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