それぞれに内面でカラカラと音をたてている二人は、旅のなかで変化していく。それがどんな変化なのかといえば、筆者には、芭蕉布に集約されているように思える。
ドラマと窯焚がパラレルな関係にあった『KAMATAKI‐窯焚‐』とは違い、この映画で芭蕉布が前面に出てくるのは終盤の限られた時間に過ぎないし、ピエールが作業に参加するわけでもない。にもかかわらず、糸芭蕉の原木を切り倒し、皮を剥ぎ、短冊状に割き、煮出して繊維をほぐし、糸にして染色し、織って独自のテクスチャーを獲得する過程を目にすると、そこに二人の主人公の変化を重ねてみたくなる。
たとえば、ピエールがフランス語で歌を口ずさむ場面に注目してほしい。このドラマは英語の会話で展開していくが、ピエールの心の琴線に触れる母語はフランス語であり、後半ではフランス語の歌によって彼の変化が巧みに表現されている。彼が自転車で島を回りながら最初に歌を口ずさむときには、まだ心を閉ざしているので哀しみだけがこみ上げてくる。
しかし、純子に心情を吐露したあとで歌うときにはトーンが変わっている。しかも純子も一緒に歌う。もちろん彼女の方も変化していて、歌詞の意味を理解することなどよりも、一緒に歌うことが大切になっている。そこには、英語の会話やセックスとは違う、より親密な関係が現れている。そして、ピエールが一人で車を運転しながら口ずさむときには、その歌はとても軽やかになっている。
さらに、沖縄出身の新良幸人が手がけた音楽にも同じことがいえる。三弦、三線、アコースティックギター、ベースなど、弦を中心とした音楽は、最初は個人の心情を表すようにメロディが際立つが、芭蕉布の場面になる頃には、軽やかなリズムを獲得し、美しいハーモニーを生み出している。
筆者はそんな映画を観ながら、枡野俊明の『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』のことを思い出していた。そこには、大乗仏教の根幹を成す「空」の思想と禅について以下のように書かれている。
「すべてのものはお互いに影響しあい、相依相関の関係において成り立っている。わかりやすくいえば、自分が幸せでありたいと願えば、他人も幸せでなければならない。そのために尽くすことが、そのまま自分の幸せにつながるという考え方である。この大乗の思想によって確立されたのが禅であり、禅では、この「空」の思想を、理屈で解釈するのではなく、実践的に体得し、日常生活に活かしていこうとする」
ガニオン監督が紡ぎ出す喪失と再生の物語は、間違いなく禅の世界に通じている。 |