トム・アット・ザ・ファーム
Tom a la ferme


2013年/カナダ=フランス/フランス語/カラー/102分/ヴィスタ/DCP
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(初出:月刊「宝島」2014年11月号、若干の加筆)

 

 

ホモソーシャル、ホモセクシュアル、ホモフォビアが
複雑に絡み合うとき、アイデンティティが揺らいでいく

 

[ストーリー] モントリオールの広告代理店で働くトム(グザヴィエ・ドラン)は、交通事故で死んだ恋人のギョームの葬儀に出席するために、ギョームの実家である農場に向かう。そこには、ギョームの母親アガット(リズ・ロワ)と、ギョームの兄フランシス(ピエール=イヴ・カルディナル)が二人で暮らしていた。

 トムは到着してすぐ、ギョームが生前、母親にはゲイの恋人である自分の存在を隠していたばかりか、サラ(エヴリーヌ・ブロシュ)というガールフレンドがいると嘘をついていたことを知りショックを受ける。さらにトムはフランシスから、ギョームの単なる友人であると母親には嘘をつきつづけることを強要される。

 恋人を救えなかった罪悪感から、次第にトムは自らを農場に幽閉するかのように、フランシスの暴力と不寛容に服していく――。

 『わたしはロランス』で注目されたグザヴィエ・ドランが他者との関係にこだわるのは、彼がゲイであるからだけではない。カナダのケベック州出身であることもその世界観に影響を及ぼしているはずだ。

 フランス系カナダ人は60年代の“静かな革命”で、カトリック教会の支配から脱すると同時に、英語化の流れに抵抗して少数派の平等な権利を主張し、それが二言語併用主義や多文化主義という国の政策に結実した。そのことについては、「“モザイク”と呼ばれるカナダの多文化主義の独自性と功罪――『モザイクと狂気』とキラン・アルワリアと『灼熱』をめぐって」やロメオ・ダレールの『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか――PKO司令官の手記』でも触れている。

 ここでは、ラムゼイ・クックの『カナダのナショナリズム』から、その変化を物語るような記述を引用しておきたい。その内容は、この映画とも無関係ではない。

「静かな革命として知られるようになった一連の改革を正当化するための新しいナショナリズムが生じた。旧来、ケベック人のイメージとナショナリズムは言語、宗教、領土に重点を置いたが、新しい思想は、伝統的生活様式を単なる追憶、しかも悪い追憶としか考えられない人々によって打ち出された。都市産業社会に生きる人々にとって、伝統的・宗教的な教えが到底答えを導き出してくれそうにない新しい諸問題にどう取り組んでいくかという点が懸念であった。伝統的な社会宗教的回答がもはや不適当であれば、制度としての教会もますます怪しまれて当然であった。神学や道徳学より経済学や社会学に基づく新しい思想が開拓されればされる程、それらを具体化する新しい制度が模索されねばならなかった」


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/編集   グザヴィエ・ドラン
Xavier Dolan
原作/脚本 ミシェル・マルク・ブシャール
Michel Marc Bouchard
撮影 アンドレ・テュルパン
Andre Turpin
オリジナル楽曲 ガブリエル・ヤレド
Gabriel Yared
 
◆キャスト◆
 
トム   グザヴィエ・ドラン
Xavier Dolan
フランシス ピエール=イヴ・カルディナル
Pierre-Yves Cardinal
アガット リズ・ロワ
Lise Roy
サラ エヴリーヌ・ブロシュ
Evelyne Brochu
バーテンダー マニュエル・タドロス
Manuel Tadros
司祭 ジャック・ラヴァレー
Jacques Lavallee
医者 アン・キャロン
Anne Caron
ポール オリヴィエ・モラン
Olivier Morin
-
(配給:アップリンク)
 

 89年生まれのドランは、そんな歴史に立脚し、個人のアイデンティティの複雑さを炙り出しているといえる。

 この新作『トム・アット・ザ・ファーム』の舞台は、ケベック州の片田舎の農場、変革などなかったかのように因襲に縛られた地域だ。モントリオールに暮らすトムは、事故死したゲイの恋人の葬儀に参列するために実家の農場を訪ねる。引用したクックの記述を踏まえるなら、トムが暮らすモントリールは革命以後の世界を、田舎の農場は革命以前の伝統的な世界を象徴していると見ることができる。

 その農場には故人の母親アガットと兄フランシスが暮らしているが、母親は生前に息子から聞いた話を鵜呑みにして、恋人の女性が姿を見せないことに苛立ち、弟の秘密を知る兄はトムに敵意をむき出しにし、高圧的な態度で芝居を強要する。そしてトムが激しく抵抗すると、彼の車を奪って暴力で支配していく。

 だが、そんな状況でトムの心理が思わぬ変化を見せる。亡き恋人の部屋で寝起きし、彼の服を着て農場の仕事を手伝うトムは、恋人もかつて自分を演じていたことを肌で感じるはずだ。そして実は兄のフランシスも閉鎖的な社会で孤立していることに気づくと、彼に共感すら覚えるようになる。

 筆者は、「ホモソーシャル、ホモセクシュアル、ホモフォビア――『リバティーン』と『ブロークバック・マウンテン』をめぐって」で、ホモソーシャル(同性間の社会的な絆)とホモセクシュアル、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の微妙な結びつきについて書いたが、このドラマもその三つの要素と無関係ではない。

 この映画の舞台のような旧弊な土地では、ホモソーシャルな連帯関係が基盤となる。だから農場を営むフランシスは、ホモソーシャルと切り離せないホモフォビアの感情を持っている。だが、アン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン』で描かれるように、ホモソーシャルな連帯関係が、あくまでその延長線上でホモセクシュアルへと移行してしまうこともある。

 フランシスの場合は、そこまで行かないが、似たような意識でトムに引き寄せられている。一方、トムもまた、農場での労働のなかでホモソーシャルな連帯関係を築くため、自ずとフランシスとの距離が縮まる。不在の恋人/弟を媒介として接近し、タンゴを踊るトムとフランシスの間には、ホモソーシャルとホモセクシュアル、ホモフォビアが複雑に絡み合っている。

 だがやがて、恐ろしい事実がトムを現実に目覚めさせる。彼は、その三つの要素のバランスが崩れたときに何が起こったのかを知り、恐怖にとらわれるのだ。

《参照/引用文献》
『カナダのナショナリズム――先住民・ケベックを中心に』 ラムゼイ・クック●
矢頭典枝訳(三交社、1994年)


(upload:2014/11/26、update:2014/12/15)

 
 
《関連リンク》
“モザイク”と呼ばれるカナダの多文化主義の独自性と功罪
――『モザイクの狂気』とキラン・アルワリアと『灼熱の魂』をめぐって
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ロメオ・ダレール 『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか』 レビュー ■
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――『リバティーン』と『ブロークバック・マウンテン』をめぐって
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