[ストーリー] ごく平凡な歴史教師アダムにとって、それはまさに人生が一変するほどショッキングな瞬間だった。ふとDVDで鑑賞した映画の中に、自分そっくりの風貌をした男の姿がはっきりと映っていたのだ。猛烈な不安に襲われ、何かに取り憑かれたようにアンソニーという売れない俳優の身辺を探り始めたアダムは、彼へのアプローチを試みる。職業や服装の趣味は違えども、あらゆる外見的特徴も声質も酷似しているふたりの男。やがてホテルの一室で対面を果たし、後戻りできない極限状況に陥った彼らは、それぞれの恋人と妻を巻き込みながら、想像を絶する運命をたどっていくのだった――。[プレスより]
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『複製された男』は、ジョゼ・サラマーゴの同名小説の映画化だが、その原作をすでに読んでいて映画に期待した人は複雑な気持ちになることだろう。原作にもオチがついていないわけではないが、それは、瓜二つのふたりの人物に加えて、三人目が登場するという謎が謎を呼ぶようなオチであり、必ずしも物語のなかで重要な位置を占めているわけではない。肝心なのは、信じがたい状況に陥った男の混乱を通して見えてくるものであるからだ。
ところが映画には、物語を集約するようなオチがついている。ドラマのなかに暗示的なアイテムが散りばめられ、それらを結び付けて真相を明らかにするようなオチだ。そうなると観客は、手がかりを見落とすことなく、真相にたどり着くことに関心を向けてしまう可能性がある。それは、サラマーゴが掘り下げようとしたのとは違う部分に注目が集まることを意味する。もちろん映画が原作に忠実である必要はまったくないが、この脚色はひとつ間違えると設定を借用しただけということになりかねない。
では、サラマーゴの視点は完全に失われてしまっているのかというと、そんなことはない。筆者はヴィルヌーヴがとらえたトロントのランドスケープを見ながら、「アメリカを映しだす鏡としての国境――『すべての美しい馬』と『渦』をめぐって」で書いたことを思い出した。
そのなかで、筆者がヴィルヌーヴの『渦』の世界を掘り下げるために引用したのが、トロント出身の気鋭の作家ダグラス・クーパーが書いた『Delirium』(98)だった。この小説には、キャリアの集大成となる巨大なタワーをトロントに建てた著名な建築家が登場する。独創的な建築物を作る野心を抱いていた彼は、カナダが理想的な場所だと考えた。パリやニューヨークといった大都市では、すでに多くの物語が生み出され、都市自体が意識を持っていたが、カナダの都市はまだ歴史が浅く、物語すらなかったからだ。彼が作ったタワーは、自然の要素を排除し、人間性を否定し、標本であるかのように人々を封じ込め、支配する。
デヴィッド・クローネンバーグと同じように、ヴィルヌーヴもそうしたヴィジョンを意識しているところがあり、この映画にもそれが当てはまる。サラマーゴの原作の主人公は、地縁や血縁といった自分が帰属する共同体を失い、希薄な人間関係のなかで生きる孤独な男であり、そんな小説をトロントに移植すれば、彼の立場がいっそう際立つことになる。実際、この映画では、人工的で均質化された高層住宅が非常に印象的にとらえられ、エンディングでも自然の要素を排除した都市の景観が、それがひとつのテーマであるかのように映し出される。
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