カナダ・ケベック州出身の異才ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品が日本で公開されるのは、『灼熱の魂』が二本目になる。最初に公開されたのは『渦』(00)という作品だった。その『渦』のヒロインであるビビアンは、大女優の娘で、25歳にしてブティックのチェーンを経営し、マスコミの注目を集めている。
彼女の人生は傍目には順風満帆に見えるが、実際には経営に行き詰っているうえに、中絶手術を受けたばかりで精神的に不安定になっている。そんな彼女は、深夜に帰宅する途中で轢き逃げをしてしまい、被害者が死亡したことを知って、罪悪感に苛まれる。
この映画では、場所も時代も定かではない空間のなかで、いままさに切れ味鋭い刃物で命を奪われようとしている醜い魚が、このヒロインの物語の語り部となる。ヒロインの世界には、水や死のイメージがちりばめられ、独特の空気を醸し出していく。
しかし、それ以上に印象に残るのが、「偶然」と「必然」の関係だ。苦悩するヒロインは自分の運命を偶然に委ねようとする。人気のない地下鉄のホームで、たまたま隣に座った男に誰も知らない真実を告白し、自首するかどうかを決めようとする。車ごと貯水池に飛び込み、自らの生死を水に委ねようとする。
ヒロインは、そうした行動を経て、彼女の人生を変える男に出会う。そして、結末から振り返ってみると、轢き逃げも含めて、偶然の積み重ねだったものが、必然であったかのように思えてくる。私たちは、ヴィルヌーヴ監督のそんな話術によって人生の不思議に引き込まれる。そこには、現実をありのままに見るのとは違う、物語の力が宿っている。
『灼熱の魂』でまず驚かされるのは、オリジナル脚本ではなくワジディ・ムアワッドの戯曲の映画化でありながら、完全にヴィルヌーヴ監督の世界になっていることだ。舞台となる中東の国が具体的に特定されていないように、これは現実をありのままに描く映画ではない。そして、偶然と必然の関係がさらに深く掘り下げられ、物語の力というべきものが最大限に引き出されている。
映画は双子の母親だったナワルの奇妙な遺言から始まる。後半で明らかにされるように、その遺言が準備されるきっかけはナワルがプールである人物と遭遇したことだった。この出会いは偶然だが、必然に繋がる要素がないわけではない。
たとえばフランス語だ。字幕ではピンとこないかもしれないが、言葉はナワルの人生に影響を及ぼしている。彼女は大学でフランス語を学ぶ。それがなければ、フランス語の家庭教師としてキリスト教右派の指導者の家に出入りすることもない。
釈放されたナワルに新しい人生を提供するシャムセディンは、アメリカには協力者が多くいると語る。ということは、彼女は当初アメリカに渡り、自分の意思でフランス語が公用語になっているカナダ・ケベック州に移ったと想像することもできるわけだ。 |