アメリカン・フットボールを題材にしたオリヴァー・ストーンの新作『エニイ・ギブン・サンデー』は、その物語に限っていえば、スポーツとビジネスの相克を意外なほどまっとうに描いている。しかし、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』以来ストーンのトレードマークになっているMTV的な映像は、相克をまったく異なる次元からとらえているといえる。
連敗と観客減にあえぐプロチームのヘッドコーチ、ダマトは選手に向かって「大切なのは勝つにせよ負けるにせよ、男らしくできるかだ」と語る。この台詞そのものは平凡だが、この映画ではそれが特別な意味を持つ。ストーンが関心を持っているのは、“男らしさ”を規定するものは何かということであり、この映画ではふたつの男らしさがせめぎあっているように見えるからだ。
ひとつは外部から規定され、消費される男らしさだ。フットボール選手はプロになる以前から好むと好まざるとにかかわらず、ある種の共通するイメージに取り込まれている。それは、『シザーハンズ』のなかで主人公エドワードを目の敵にする体育会系のリーダー、ジムの存在を思いだせばわかりやすい。ティム・バートンは自分の経験に照らして彼のキャラクターをこのように説明している。
「ぼくはいつもこの種のヤツに恐怖を感じていた。だって、ヤツらにはガールフレンドが何人もいるんだ。ヤツらはフットボールのキャプテンみたいで、アメリカン・ドリームの若者版みたいなイメージがあるからだ。それでいてヤツらは恐ろしげで暴力的だ。女の子たちは、そのイメージに反応し、無意識に彼らに乱暴されたいなんて願望を持っているんだ」(『シザーハンズ』プレス資料より引用)
一般に流通するこうした男らしさは、社会問題の原因にもなっている。拙著『サバービアの憂鬱』でも取り上げているが、『シザーハンズ』が公開される前年、ニュージャージーの閑静なサバービアで、ハイスクールのフットボールと野球で活躍する兄弟とその仲間たちが、同じ町に住み、幼馴染といってもおかしくない17歳の知的障害のある少女に陵辱をくわえる事件が起こり、注目を浴びた。
この事件を取材したジャーナリスト、B・レフコウィッツは、九七年に発表した著書『Our Guys』のなかで、それがアメリカのどこでも起こりうることであると警告している。“Our Guys”というタイトルは、コミュニティの誇りを意味しているが、優遇され、特別な目で見られることが、彼らの男らしさを歪めることにもなる。
ストーンは『エニイ・ギブン・サンデー』のなかで、一般に流通し、消費されていく男らしさの表と裏を徹底的に掘り下げていく。テレビ中継は、フィールドの激しいプレイを常にチアガールと結びつけ、そこにCMが割り込む。スター選手はMTVやCMのなかでセクシーな水着姿のモデルやダンサーと対置され、消費されていく。さらにこの映画には、男と女をめぐる印象的なドラマが散りばめられている。
父親の後を継いでチームのオーナーとなった娘のパグニアーチは、父親が息子だけを望んでいたことを知っていて、自分が男であろうと努める。それがどんな男なのかは、ある試合後に彼女がロッカールームに現れる場面が物語っている。彼女は、全裸の大男たちでごった返すその場の空気にまったく臆することがない。
しかし、故障したクォーターバックに代わってチームを勝利に導いた無名の黒人選手ビーメンだけをねぎらい、この男をスター選手として消費し、ビジネスの成功をもくろむとき、彼女は外部から規定された男の世界の象徴になっている。
彼女の表敬訪問を受けた全裸のビーメンは、彼女の女を意識して男らしさを規定され、それがメディアのなかで確実に増殖していく。ゴージャスな女たちに囲まれた彼は、これまで付き合ってきた黒人の恋人を相手にしなくなる。ひと昔前なら、マイノリティの女性は人種問題のしわ寄せを一手に背負わされたものだが、大学に通う中流の娘である彼女は、すぐに新しい彼氏を作る。
逆に焦るのは、自己を規定されたことで、チーム内で孤立するビーメンの方なのだ。この映画には、ロッカールームで黒人選手のラップと白人選手のヘヴィメタが火花を散らす場面もあるが、この人種も外部からの規定にすぎない。 |