マチズモを通して現代の欲望を見直す
――『焼け石に水』と『夜になるまえに』をめぐって


アメリカン・ビューティー/American Beauty―――――- 1999年アメリカカラー122分シネスコドルビーSR・SRD・DTS・SDDS
ホームドラマ/Sitcom――――――――――――――- 1998年/フランス/カラー/80分/ヴィスタ
焼け石に水/Water Drops on Burning Rocks――――― 2000年/フランス/カラー/90分/ヴィスタ/ドルビーSRD
夜になるまえに/Before Night Falls――――――――― 2000年/アメリカ/カラー/133分/ヴィスタ/ドルビー・デジタル
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(初出:「Cut」2001年8月号、映画の境界線02、加筆)

 

 

■■画一化されたサバービアのなかで揺らぐマチズモ■■

 サム・メンデス監督の『アメリカン・ビューティー』は、マチズモ(男性優位主義)と欲望の関係に注目してみると、この映画が描こうとする現代という時代がいっそう明確になるのではないかと思う。

 主人公一家の両隣には、海兵隊の元大佐の一家とゲイのカップルが住んでいる。これが、社会が保守化していた80年代であれば、彼らは保守とリベラルに分かれ、もっと距離を置いて暮らしていたことだろう。そればかりか社会全体から見れば、強いアメリカを目指す保守派のマチズモ的な体質が、リベラルなゲイを抑圧していたはずだ。実際、レーガン政権は80年代に、AIDSの問題を利用するなど様々なかたちでゲイのコミュニティを抑圧した。ところが、こうした抑圧は往々にして思わぬ反動を生みだす。

 たとえば、80年代後半にラップ/ヒップホップやブラック・ムーヴィーが台頭してきたのは決して偶然ではない。レーガン政権の保守的な政策でマイノリティは厳しい状況に追い込まれたが、同時にそれが起爆剤となり、音楽や映画に新たな強度をもたらすことになったのだ。それはゲイのコミュニティも例外ではない。それまでゲイ・フィクションといえば、マイナーな出版社しか扱わず、日蔭の存在だったが、次第に世間の大きな注目を浴びるようになり、大手の出版社が扱うようになったのだ。そういう意味では、抑圧と本質的な欲望は密接に結びついているといえる。

 『アメリカン・ビューティー』に描かれる90年代の家族の姿は、そんな80年代を踏まえてみると、さらに興味深く思えるはずだ。海兵隊の元大佐の一家とゲイのカップルは、同じコミュニティで生活している。社会が中道化した90年代には、人間を分けるのは、もはやイデオロギーではなく貧富の差なのだ。だから生活レベルが同じであれば、保守もリベラルもない。しかしそれでも、元大佐はマチズモに固執している。彼は内心、ゲイのカップルを苦々しく思い、家庭内では、妻と息子に対して父権をエゴイスティックに振り回している。

 それでは主人公一家はといえば、父権は失墜し、マチズモからはほど遠い。幸福を演じることに疲れた両親とひとり娘は、自己の欲望に忠実に生きようとする。しかし、結果的に本質的な欲望を見出せるのは娘だけだ。両親は自分がどう見えるかという表層的な豊かさと快楽に振り回されているに過ぎない。ここで興味深いのが、その両親が性的な意味も含めた力の象徴としての銃と筋肉に執着していくことだ。本来ならこの銃と筋肉は、マチズモの権化であり、内心ゲイを嫌悪する隣人の元大佐にこそ相応しい。ところがこの双方のあいだでマチズモをめぐる奇妙な転倒が起こる。

 隣家の主レスターが筋肉を鍛えるのを覗き見ていた元大佐は、自分の息子が彼にマリファナを売るのを目撃するが、それを性的な関係と完全に誤解してしまう。その後、息子を咎めようとした元大佐は、逆に息子から見放され、孤立してしまう。このとき、彼の頭のなかにあるレスターの印象は以前とは違ったものになっている。レスターは筋肉を鍛え、性的な関係において自分の息子が彼に完全に服従する立場をとっていた。ここで元大佐にとって何よりも重要なのは、ゲイの関係ではなく、支配と服従の関係なのだ。そこで、追いつめられた彼は、レスターに救いを求めることになる。本質を欠いた力の象徴に眩惑され、自分を見失い、不覚にも同性愛的な欲望を抱いてしまうのだ。

 かつて強固なイデオロギーとして社会を支配し、性的な抑圧とその反動としてのエロティシズムを生み出す源ともなったマチズモは、そんなふうにして現代の日常のなかでもろくも揺らいでいく。と同時に、それを埋め合わせるかのように、本質を欠いた力の象徴が快楽として消費されるが、しかしそこには抑圧も解放もない。

■■失われたマチズモを象徴するネズミと森の男■■

 そんな現実に敏感に反応し、独自の視点で掘り下げているのが、フランス映画界で異彩を放つフランソワ・オゾンだといえる。

 とあるブルジョワ家庭を舞台にした長編第1作『ホームドラマ』では、父親が持ち帰ったペットのネズミが家族に奇妙な影響を及ぼし、妻と子供たちが同性愛、自殺未遂、SM、乱交パーティや近親相姦を繰り広げていく。彼らは自己の欲望に忠実に行動しているかに見えるが、決して満たされているようには見えない。もともと彼らは何らかのかたちで抑圧されていたわけでもなく、単に画一化された空虚な日常に異物が入り込んだことが刺激となり、家族から別の消費形態へと移行したにすぎない。

 そればかりかこのドラマは、妻や子供たちが無意識に求めているものが実は抑圧であることを示唆している。一家の父親は、食事の席で息子がゲイであることを告白したとき、こんなことを話す。古代ギリシアでは男色が慣例となっていて、精力的な年長者と内気で女性的な若者がカップルになったと。それは、マチズモ(男性優位主義)的な支配と服従の関係といえるが、この父親自身は家族に対して何ら支配力を持たないばかりか、激しく混乱をきたす家族に対して少しも関与しようともしない。

 しかしこの父親は、終始平静と無関心を装いながらも、ある欲望を内に秘めている。映画の冒頭では、彼が家族を銃で皆殺しにすることが予告される。しかし実際にはそれは彼の悪夢の領域にとどまり、結局彼は巨大なネズミに変身する。それも能動的にというよりは、むしろ家族に退治されるためにである。妻と子供たちが一丸となってネズミに立ち向かい、退治することが、抑圧と解放を生みだし、彼らは生き生きとした絆を取り戻すのだ。

 2作目の『クリミナル・ラヴァーズ』では、学校で顔見知りの生徒を殺したリュックとアリスという高校生が、死体を捨てるために森に入っていく。ところがそこで、"ヘンゼルとグレーテル"に酷似した状況に巻き込まれ、森の男に監禁されてしまう。

 リュックは現実の世界では、アリスと性的な関係を持つことができない。これは単に彼がゲイであることを意味するのではなく、問題はアリスが表層的な虚構に逃避し、そこから彼を操っていることにある。しかし彼は、現実に深く根ざした物語の世界で、支配と服従という力関係の洗礼を受けることによって、現実とすりかえられた虚構を見極め、心の痛みや罪悪感に目覚める。森の男は、失われたマチズモを象徴しているのだ。

■■性解放とマチズモ的な支配と服従の密接な結びつき■■

 『ホームドラマ』と『クリミナル・ラヴァーズ』が、消費社会に組み込まれた欲望に対して、失われたマチズモが揺さぶりをかける映画とするなら、オゾンの新作『焼け石に水』は、欲望が消費社会に完全に取り込まれる以前の時代を背景に、性解放がいかに支配と服従というマチズモ的な力関係と密接に結びついていたのかを描く映画といえる。

 ファスビンダーが19歳で書いた未発表の戯曲を映画化したこの『焼け石に水』では、60〜70年代あたりを背景に、セクシュアリティをめぐる支配と服従の関係が、室内に限定された4幕の悲喜劇として描かれる。登場人物は中年男レオポルド、若者フランツと彼の婚約者アナ、かつてレオポルドと暮らし、性転換手術を受けて女性になったヴェラの4人。4幕のなかで、レオポルドに支配されるフランツが、今度はアナを支配するというように、彼らの力関係が次々と変化していく。


―アメリカン・ビューティー―

※スタッフ、キャストは
『アメリカン・ビューティー』レビュー
参照のこと

―ホームドラマ―

◆スタッフ◆

監督/脚本   フランソワ・オゾン
Francois Ozon
撮影 ヨリック・ルソー
Yorik Le Saux
編集 ドミニク・ペトロ
Dominique Petrot
音楽 エリック・ヌヴー
Eric Neveux

◆キャスト◆

エレーヌ(母親)   エヴリーヌ・ダンドリイ
Evelyne Dandry
ジャン(父親) フランソワ・マルトゥレ
Francois Marthouret
ソフィ(娘) マリナ・ド・ヴァン
Marina de Van
ニコラ(息子) アドリアン・ド・ヴァン
Adrien de Van
(配給:ユーロスペース)


―焼け石に水―

◆スタッフ◆

監督/脚本   フランソワ・オゾン
Francois Ozon
原作 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
Rainer Werner Fassbinder
撮影 ジャンヌ・ラポワリー
Jeanne Lapoirie
編集 ローランス・バヴェダー
Laurence Bawedin

◆キャスト◆

レオポルド
ベルナール・ジロドー
Bernard Giraudeau
フランツ マリック・ジディ
Malik Zidi
アナ リュディヴィーヌ・サニエ
Ludivine Sagnier
ヴェラ アンナ・トムソン
Anna Thomson
(配給:ユーロスペース)


―夜になるまえに―

◆スタッフ◆

監督/脚本   ジュリアン・シュナーベル
Julian Schnabel
脚本 カニンガム・オキーフ/ ラサロ・ゴメス・カリレス
Cunningham O'Keefe/ Lazaro Gomez Carriles
撮影監督 ハビエル・ペレス・グロベ/ ギジェルモ・ロサス
Xavier Perez Grobet/ Guillermo Rosas
編集 マイケル・ベレンバウム
Michael Berenbaum
音楽 カーター・バーウェル
Carter Burwell

◆キャスト◆

レイナルド・アレナス   ハビエル・バルデム
Javier Bardem
ラサロ・ゴメス・カリレス オリヴィエ・マルティネス
Olivier Martinez
ペペ・マラス アンドレア・ディ・ステファノ
Andrea Di Stefano
ビクトル中尉/ボンボン ジョニー・デップ
Johnny Depp
クコ・サンチェス ショーン・ペン
Sean Penn
(配給;アスミック・エース)
 
 
 
 
 


 原作の映画化にあたってオゾンは、最初にフランツを誘惑するレオポルドを、フランツの父親に近い年齢に変えている。そのレオポルドは、悪夢や物語の世界ではなく、現実の世界で思う存分、暴君ぶりを発揮する。そんな彼のマチズモ的な資質は、他の3人を性的な覚醒に導くが、やがてフランツやヴェラは変化する力関係のなかで宙吊り状態に追い込まれていく。抑圧を解かれたとき、彼らのセクシュアリティは揺らぎ、アイデンティティを見失うような孤立感に襲われるのだ。

 面白いのは、そこで4人が並んで唐突にサンバを踊りだすことだ。それは、この映画の時代背景という枠組みを一瞬にして取り払うオゾン的マジックといえる。性的に宙吊りとなったフランツとヴェラは、それぞれにレオポルドに「自分が必要か?」と尋ねる。傲慢なレオポルドは「君が私を必要なのだ」という答を繰り返す。この彼の言葉は、本質的な欲望が失われつつある現代に対する、挑発的で皮肉なメッセージといってよいだろう。

■■マチズモをめぐる政治と同性愛の密接で皮肉な関係■■

 そしてもう1本、キューバ人の亡命作家レイナルド・アレナスの同名自伝を映画化したジュリアン・シュナーベルの新作『夜になるまえに』も、マチズモと同性愛の関係に注目すべきものがある。時代背景は異なるが、キューバで同性愛者が厳しい抑圧にさらされてきた事実は、セネル・パスの原作を映画化した名作『苺とチョコレート』のドラマにも反映されている。

 その『苺とチョコレート』では、ゲイの芸術家であるディエゴは確かに弾圧されていたが、彼に惹かれていく大学生ダビドとそれを止めようとする彼の親友とのやりとりにも、あくまで精神的な次元ではあるが同性愛的な雰囲気が漂っていた。『夜になるまえに』の原作と映画では、そんな雰囲気の背後にあるものが明確になっている。政府のマチズモ的な体質と同性愛が、相容れない対極ではなく、親密かつ皮肉な繋がりを持つものとして描きだされているのだ。

 アレナスの原作では、政治と同性愛をめぐるこんな表現が様々にかたちを変えて繰り返される。

「60年代ほどキューバでセックスが盛んだった時代はないと思う。まさしくその時代に、同性愛者を取り締まる法律が公布され、同性愛者たちに対する迫害が猛り狂い、強制収容所が作られたのだった。まさしくその時代に、性行為がタブーと化し、<新しい人間>が褒めそやされ、マチスモが称揚されたのだ。フィデル・カストロに拍手を送りながら革命広場の前をパレードするあの若者たちのほとんどが、ライフルを手に軍人らしい顔をして行進するあの兵士たちのほとんどが、パレードのあとぼくたちの部屋に来て体を丸め、裸になって自分の本当の姿をさらけだした」

「何がキューバの性的抑圧を押し進めたのかといえば、まさしく性解放運動だったのじゃないだろうか。たぶん体制に対する抗議として、同性愛はしだいに大胆に広がっていったのだろう。(中略)率直に言って、同性愛者用の強制収容所や、その気があるかのように装ってホモを見つけ逮捕する若い警官たちは、結果として、同性愛を活性化していたにすぎないと思う」

「キューバ政府は実は男役のホモはホモと見なしていなかった」。

 またアレナスはセックスについて、「性的関係の美しさは征服が自然であることに、そして、その征服がひめやかになされることにある」と書いている。キューバで長年に渡って厳しい弾圧にさらされたアレナスは、アメリカに亡命して自由を手にするが、性的関係については退屈だと明言している。アメリカでは同性愛の世界がカテゴライズされ、男同士がセックスでお互いにまったく同じことをする。ところがキューバでは、弾圧と矛盾するようだが、そんな枠組みはなく、だから自分と対照的な人間を探し求め、美しい関係を築くことができたというのだ。

 シュナーベルの映画でも、もちろんこの政治と同性愛の繋がりに関心が払われ、原作の物語に独自の解釈も加えられている。特に映画で印象に残るのは、ジョニー・デップが、アレナスを監視し、再教育を強要するビクトル中尉と、刑務所の運び屋にして女装の麗人ボンボンの二役をこなしていることだ。ビクトルはアレナスの口に銃口を無理やり押し込み、ボンボンはアレナスの原稿を肛門から腸の奥に押し込むのだ。またアレナスが出国する経緯も象徴的だ。カストロがキューバからクズを追い払うことを決めたとき、アレナスはクズの代表であるホモとして審査を受ける。その審査では、やる方かやられる方かが運命の分かれ目となる。彼は、やられる方のホモであると認められ、作家と気づかれる前に念願の出国を果たすのだ。

 キューバは同性愛に関する土壌が他の世界とは異質な部分ももちろんあるが、こうして『アメリカン・ビューティー』やオゾンの映画と『夜になるまえに』を対比してみると、マチズモをめぐって、抑圧と欲望の関係がいかに大きく変化しつつあるのかがわかるのではないだろうか。マチズモは現実社会のなかで、人間の平等の理念からすれば否定されるべきものだろう。しかし映画のなかでは、欲望が消費社会に完全にコントロールされつつある時代に、本質的な欲望を見直す契機ともなり得るのだ。


《参照/引用文献》
『夜になるまえに』レイナルド・アレナス●
安藤哲行訳/国書刊行会/1997年

(upload:2001/11/24)
 
 
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