■■画一化されたサバービアのなかで揺らぐマチズモ■■
サム・メンデス監督の『アメリカン・ビューティー』は、マチズモ(男性優位主義)と欲望の関係に注目してみると、この映画が描こうとする現代という時代がいっそう明確になるのではないかと思う。
主人公一家の両隣には、海兵隊の元大佐の一家とゲイのカップルが住んでいる。これが、社会が保守化していた80年代であれば、彼らは保守とリベラルに分かれ、もっと距離を置いて暮らしていたことだろう。そればかりか社会全体から見れば、強いアメリカを目指す保守派のマチズモ的な体質が、リベラルなゲイを抑圧していたはずだ。実際、レーガン政権は80年代に、AIDSの問題を利用するなど様々なかたちでゲイのコミュニティを抑圧した。ところが、こうした抑圧は往々にして思わぬ反動を生みだす。
たとえば、80年代後半にラップ/ヒップホップやブラック・ムーヴィーが台頭してきたのは決して偶然ではない。レーガン政権の保守的な政策でマイノリティは厳しい状況に追い込まれたが、同時にそれが起爆剤となり、音楽や映画に新たな強度をもたらすことになったのだ。それはゲイのコミュニティも例外ではない。それまでゲイ・フィクションといえば、マイナーな出版社しか扱わず、日蔭の存在だったが、次第に世間の大きな注目を浴びるようになり、大手の出版社が扱うようになったのだ。そういう意味では、抑圧と本質的な欲望は密接に結びついているといえる。
『アメリカン・ビューティー』に描かれる90年代の家族の姿は、そんな80年代を踏まえてみると、さらに興味深く思えるはずだ。海兵隊の元大佐の一家とゲイのカップルは、同じコミュニティで生活している。社会が中道化した90年代には、人間を分けるのは、もはやイデオロギーではなく貧富の差なのだ。だから生活レベルが同じであれば、保守もリベラルもない。しかしそれでも、元大佐はマチズモに固執している。彼は内心、ゲイのカップルを苦々しく思い、家庭内では、妻と息子に対して父権をエゴイスティックに振り回している。
それでは主人公一家はといえば、父権は失墜し、マチズモからはほど遠い。幸福を演じることに疲れた両親とひとり娘は、自己の欲望に忠実に生きようとする。しかし、結果的に本質的な欲望を見出せるのは娘だけだ。両親は自分がどう見えるかという表層的な豊かさと快楽に振り回されているに過ぎない。ここで興味深いのが、その両親が性的な意味も含めた力の象徴としての銃と筋肉に執着していくことだ。本来ならこの銃と筋肉は、マチズモの権化であり、内心ゲイを嫌悪する隣人の元大佐にこそ相応しい。ところがこの双方のあいだでマチズモをめぐる奇妙な転倒が起こる。
隣家の主レスターが筋肉を鍛えるのを覗き見ていた元大佐は、自分の息子が彼にマリファナを売るのを目撃するが、それを性的な関係と完全に誤解してしまう。その後、息子を咎めようとした元大佐は、逆に息子から見放され、孤立してしまう。このとき、彼の頭のなかにあるレスターの印象は以前とは違ったものになっている。レスターは筋肉を鍛え、性的な関係において自分の息子が彼に完全に服従する立場をとっていた。ここで元大佐にとって何よりも重要なのは、ゲイの関係ではなく、支配と服従の関係なのだ。そこで、追いつめられた彼は、レスターに救いを求めることになる。本質を欠いた力の象徴に眩惑され、自分を見失い、不覚にも同性愛的な欲望を抱いてしまうのだ。
かつて強固なイデオロギーとして社会を支配し、性的な抑圧とその反動としてのエロティシズムを生み出す源ともなったマチズモは、そんなふうにして現代の日常のなかでもろくも揺らいでいく。と同時に、それを埋め合わせるかのように、本質を欠いた力の象徴が快楽として消費されるが、しかしそこには抑圧も解放もない。
■■失われたマチズモを象徴するネズミと森の男■■
そんな現実に敏感に反応し、独自の視点で掘り下げているのが、フランス映画界で異彩を放つフランソワ・オゾンだといえる。
とあるブルジョワ家庭を舞台にした長編第1作『ホームドラマ』では、父親が持ち帰ったペットのネズミが家族に奇妙な影響を及ぼし、妻と子供たちが同性愛、自殺未遂、SM、乱交パーティや近親相姦を繰り広げていく。彼らは自己の欲望に忠実に行動しているかに見えるが、決して満たされているようには見えない。もともと彼らは何らかのかたちで抑圧されていたわけでもなく、単に画一化された空虚な日常に異物が入り込んだことが刺激となり、家族から別の消費形態へと移行したにすぎない。
そればかりかこのドラマは、妻や子供たちが無意識に求めているものが実は抑圧であることを示唆している。一家の父親は、食事の席で息子がゲイであることを告白したとき、こんなことを話す。古代ギリシアでは男色が慣例となっていて、精力的な年長者と内気で女性的な若者がカップルになったと。それは、マチズモ(男性優位主義)的な支配と服従の関係といえるが、この父親自身は家族に対して何ら支配力を持たないばかりか、激しく混乱をきたす家族に対して少しも関与しようともしない。
しかしこの父親は、終始平静と無関心を装いながらも、ある欲望を内に秘めている。映画の冒頭では、彼が家族を銃で皆殺しにすることが予告される。しかし実際にはそれは彼の悪夢の領域にとどまり、結局彼は巨大なネズミに変身する。それも能動的にというよりは、むしろ家族に退治されるためにである。妻と子供たちが一丸となってネズミに立ち向かい、退治することが、抑圧と解放を生みだし、彼らは生き生きとした絆を取り戻すのだ。
2作目の『クリミナル・ラヴァーズ』では、学校で顔見知りの生徒を殺したリュックとアリスという高校生が、死体を捨てるために森に入っていく。ところがそこで、"ヘンゼルとグレーテル"に酷似した状況に巻き込まれ、森の男に監禁されてしまう。
リュックは現実の世界では、アリスと性的な関係を持つことができない。これは単に彼がゲイであることを意味するのではなく、問題はアリスが表層的な虚構に逃避し、そこから彼を操っていることにある。しかし彼は、現実に深く根ざした物語の世界で、支配と服従という力関係の洗礼を受けることによって、現実とすりかえられた虚構を見極め、心の痛みや罪悪感に目覚める。森の男は、失われたマチズモを象徴しているのだ。
■■性解放とマチズモ的な支配と服従の密接な結びつき■■
『ホームドラマ』と『クリミナル・ラヴァーズ』が、消費社会に組み込まれた欲望に対して、失われたマチズモが揺さぶりをかける映画とするなら、オゾンの新作『焼け石に水』は、欲望が消費社会に完全に取り込まれる以前の時代を背景に、性解放がいかに支配と服従というマチズモ的な力関係と密接に結びついていたのかを描く映画といえる。
ファスビンダーが19歳で書いた未発表の戯曲を映画化したこの『焼け石に水』では、60〜70年代あたりを背景に、セクシュアリティをめぐる支配と服従の関係が、室内に限定された4幕の悲喜劇として描かれる。登場人物は中年男レオポルド、若者フランツと彼の婚約者アナ、かつてレオポルドと暮らし、性転換手術を受けて女性になったヴェラの4人。4幕のなかで、レオポルドに支配されるフランツが、今度はアナを支配するというように、彼らの力関係が次々と変化していく。 |