ノーマン・メイラーは、順応主義や全体主義がはびこる50年代に見出した極端な非順応主義者としてのヒップスター、その暴力性について以下のように書いている。
「個人的な暴力でどんな代価をはらっても、われわれをわれわれ自身にかえそうとするヒップは、野蛮人を肯定する。なぜなら、人間性についての原始的情熱がなくては、 個人的暴力行為はつねに国家による集団的暴力行為にまさるべきものだと信ずることはできないからである」
オリバー・ストーンは間違いなくそんな精神を引き継いでいる。彼が90年代に監督した『ナチュラル・ボーン・キラーズ』でも、全体主義的な暴力と個人的な暴力の間に一線が引かれている。視聴率や売名にとらわれたキャスターや刑事、サディストの刑務所長が前者を、ミッキーとマロリーという主人公の男女が後者を象徴しているからだ。
そのことについて、ストーン自身は以下のように説明している。
「警官、看守、刑務所、記者――彼らはすべて、みずからが冷酷で全体主義的な刑罰の巨大で奇怪な網の一部となってしまったことを実感しているはずだ。このような状況では、骨の髄からのアンチ・ヒーロー、ミッキーとマロリーのような単独で行動する孤独な殺人者たちが顔のない抑圧的な体制の表面に浮かびあがり、人間的な顔を求めるアメリカ人たちの心をとらえるのは当然である(後略)」
そんなストーンは、『ウォール・ストリート』ではかなりゆるくなってしまったような印象を受けたが、まだその原始的なパワーは失われていなかったようだ。彼の新作『野蛮なやつら/SAVAGES』は、グローバリゼーションの時代の『ナチュラル・ボーン・キラーズ』といえる。
この映画で全体主義的な暴力装置となるのは、メキシコの巨大麻薬組織だ。そのバハ・カルテルから強引に提携を迫られた主人公のベンとチョンは、危険を察知し、事業を丸ごと渡す決断を下すが、それではすまない。カルテルは、ふたりの彼女を拉致し、彼らそのものを支配しようとする。
そうなるとふたりはもはや手段を選ばない。仏教を信奉していたベンも、葛藤の果てにその手を血に染めていく。しかし、最愛の女を取り戻すために野蛮になるだけなら、おそらく物足りなく思えただろう。
同じ野蛮でもカルテルと主人公たちでは目的地が違う。つまり、冒頭で引用した「個人的な暴力でどんな代価をはらっても、われわれをわれわれ自身にかえそうとするヒップは、野蛮人を肯定する」ということだ。この映画のラストには、暴力によって自分を取り戻し、解放された野蛮人の姿を垣間見ることができる。 |