ベネット・ミラー監督の『カポーティ』では、トルーマン・カポーティの生涯のなかで、彼の人生を決定的に変えることになった数年間の出来事が描かれる。
1959年、すでに作家として名声を確立していたカポーティは、ニューヨーク・タイムズに掲載されたある記事に目を留める。それは、カンザス州の田舎町で一家4人が惨殺された事件を伝える記事だった。事件に興味を覚えた彼は、カンザスに向かい、取材を開始する。だが、その時点ではまだ犯人の正体も明らかではなく、彼の関心は、事件が地域や住人に及ぼす影響にあった。
ところがやがて、容疑者のディックとペリーが逮捕され、計画が変更される。ノンフィクションの分野に新たな地平を切り開くという野心を持っていたカポーティは、彼らと接触することによってインスピレーションを受け、この題材は、カポーティ自身が“ノンフィクション・ノベル”と命名する大作『冷血』へと発展していくことになる。
この映画の原作であるジェラルド・クラークの伝記『カポーティ』には、カポーティ自身のこんな発言が引用されている。「『冷血』がぼくからどれだけのものを奪ったかだれもわからないだろう」とトルーマンは言う。「骨の髄までぼくを削り取ったんだ。ぼくを殺しかねなかった。ある意味では、殺したも同然だと思う。その作品にかかる前は、比較の問題だが、ぼくは安定した人間だった。そのあと何かが起こった。どうしても本が忘れられない、とくに最後の絞首刑が。ああ、身の毛がよだつ」
この映画では、そこまで彼を追い詰めたものが浮き彫りにされる。だが、原作と映画では、その視点や表現に微妙な違いがある。原作は具体的だ。カポーティは、犯人のひとりペリーに引きつけられる。ふたりの背景には共通点があったからだ。どちらも親の愛に恵まれず、ペリーはインディアンとの混血であるために、カポーティは女性的であるために疎外されてきた。だから『冷血』のなかでペリーは、ある種の共感を込めて、このように表現される。「ペリー・スミスの半生は、バラのしとねとはほど遠く、憐れむべきものであって、一つのはかない幻からまた別のはかない幻へと進んでゆく、醜く、孤独な道程だったからだ」
しかし、カポーティのなかには、そんな共感を裏切る欲望があった。彼が本を完成し、名声を得るためには、ペリーとディックが処刑されなければならない。それゆえ彼は、共感と欲望に引き裂かれていく。
これに対して映画は、原作の事実を単純になぞるのではなく、原作と『冷血』を結びつけたハイブリッドな映像空間のなかに、独自のカポーティ像を描き出していく。もちろんそれは簡単なことではない。『冷血』には、著者であるカポーティが登場しないからだ。ジョージ・プリンプトンが手がけた証言集『トルーマン・カポーティ』のなかで、カポーティは著者の存在についてこのように語っている。
「ノンフィクション・ノベルの形式で完全な成功作とは、著者の存在をまったく感じさせないものであるべきだと思うのです。(中略)私の本で、技術的に最もむずかしかったのは、いかに自分を出さずに書くか、それでいて信憑性を損なわずにいられるか、という点でした」
この映画は、伝記を手がかりに、『冷血』から巧妙に消し去られた著者の存在を炙り出していく。たとえば、『冷血』のなかで、死刑囚監房に収容されたペリーは、断食による自殺を試み、刑務所付属病院に移されてもそれを続行し、一時は昏睡状態に陥る。そんなとき、カポーティはどうしていたのか。映画の彼は、衰弱したペリーの口に流動食を運ぶ。それが事実かどうかは問題ではない。
この映画を印象深いものにしているのは、『冷血』を通して再構築されるカポーティ像であり、そのドラマからは最終的にもうひとつの“冷血”が浮かび上がってくるのだ。
一方、スパイク・リー監督が『インサイド・マン』の前に監督した『セレブの種』にも、『カポーティ』とはまったく異なるハイブリッドな映像空間がある。
主人公のジャックは、ハーバードでMBAを取得し、巨大製薬会社でエグゼクティブの地位にあるエリートの黒人だが、そんな彼に冒頭からトラブルが襲いかかる。新薬の研究責任者の自殺をきっかけにAIDSワクチンをめぐる不正に気づいた彼は、内部告発が事前に露見し、業界から締め出され、銀行口座を凍結されてしまう。
すると映画は時間を遡り、トラブルに巻き込まれたジャックが、ウォーターゲート事件で最初に異変に気づき、警察に通報したにもかかわらず、何も得られないまま人生を台無しにされたビルの警備員フランク・ウィルズに重ねられる。 |