ということで、彼の変容するスタイルに見え隠れする奇妙なオブセッションの話である。まず注目したいのは、短編集「夜の樹」だ。「夜の樹」には、彼が作家としての名声を決定づけた「遠い声 遠い部屋」に先立つ数年間に様々な雑誌に発表された短編が収められている。
日本ではそれほど評価が高いとはいえないが、この短編集では、とても20代前半とは思えない隙のないスタイルによって世界が構築され、冷徹な輝きを放っている。
この「夜の樹」と「遠い声 遠い部屋」以降のカポーティには、スタイルの変容とは異なる意味で、深い断層があるように思う。それは、「遠い声 遠い部屋」以後の彼のスタイルにも大きな影響を及ぼしている断層である。そんな断層について語ることは、
同時にこの作家の鏡に対する独特のオブセッションについて語ることにもなる。
カポーティの作品のなかで、筆者が最初にこの鏡に対するオブセッションのようなものを感じたのは、「遠い声 遠い部屋」を読んだときのことだ。この物語のなかには、主人公の少年ジョエルに向かって、彼の従兄(らしき)ランドルフが語るこんな言葉がある。
「すっかりわれわれを空想的にすることができるんだね、鏡は、それが鏡の秘密なんだよ。世界じゅうの鏡をすっかり壊してしまうのは、どんなに名状し難い苦痛だろう――そしたらいったいわれわれは、自分が自分であるという安心をどこに求めればいいのだろう?
いいかい、きみ、ナルシスは自尊家ではなかったのだ…彼もまたわれわれの一人にすぎなかったのだよ、どうにも打ち破れない孤独の中で、たまたま自分の映像を見たところが、そこにただ一人の美しい仲間を、ただ一人の離れられぬ恋人を見つけたんだ…かわいそうに、
ナルシスはこの点で誠実だったおそらくただ一人の人間だね」
もちろん、このランドルフの言葉を、単純にカポーティ自身の意見と同一視し、そこに鏡のオブセッションがあるというつもりはない。この言葉を踏まえて「夜の樹」を振り返ってみるとき、いくつかの短編、もっと正確にいえば、大人の世界と子供の世界を描く作品に大別できるこの短編集のなかで、
前者の作品から完璧なスタイルに隠された鏡のモチールが、はっきりと浮かび上がってくるのだ。
これらの短編の主人公たち(彼らは、物語の始まりからすでに人を愛することがない人々として描かれている)は、それぞれにカポーティが仕組むある出会いによって、深い暗闇へと沈みこんでいく。
たとえば、短編「ミリアム」に鏡のモチーフを見ることは比較的容易だ。主人公である61歳の未亡人H・T・ミラーは、あたかも都市の風景に埋没してしまったかのように、ニューヨークのアパートにひっそりと暮らしている。そんな彼女は、ある雪の降る日に、彼女と同じミリアムという名前の少女に出会う。
そしてなぜか少女に心惹かれる。その少女は、雪の降る日に二度、三度と、場所も知るはずのないミラー夫人のアパートに現れる。夫人は次第に少女に怯え始める。
カポーティは雪を、たとえば「すばやく垂れさがる銀幕(スクリーン)となって降り注ぎ」というように表現する。あたかもミラー夫人の姿を映し出す鏡のように。そしてカポーティは、夫人が少女に現実に出会ったかどうかは重要ではないと綴ったあとで、こうつづける。
「というのも、ミリアムにたいして彼女が失った唯一のものは、彼女自身の正体に過ぎなかったからだ。しかしいまや、この部屋に住み、自分自身の食事を料理し、カナリヤを飼い、彼女が頼りにし、信じることのできる人、すなわちH・T・ミラー夫人を、ふたたび発見したことを彼女は知ったのだ」
この ”ふたたび” という言葉には、彼女の内なる暗闇に眠っていた彼女自身を呼び覚ますような鏡の効果によって、ものすごい重圧がかかっている。なぜなら、自分が自分であることを失っていた空白の時間の重みが、彼女に一気にのしかかり、彼女を押しつぶそうとするからだ。
あるいは、ほとんど友人もなく、大都市に出てきた目的も忘れ、ニューヨークの下着会社で働く毎日を過ごす「夢を売る女」の主人公シルヴィア。彼女はアルコールの力を借りることによって、「スーツケースを抱えて青空を旅する」という浮浪者オレーリーに出会う。オレーリーの存在は、
「彼女が子供時代の人形と――奇跡的に成長し、いろいろな能力をそなえるようになった人形といっしょに歩いているみたいだった」と描写される。この作品では、もうひとり夢を買う男が絡んでくるが、とにかくシルヴィアは、「ミリアム」のミラー夫人と同じように、彼女がそれまで立脚していた地盤を突然失い、
現実から遊離していく。その過程で彼女は、ついぞ口にすることのなかった愛をオレーリーに告白するが、結局、オレーリーという鏡に映し出されたのは、自分が自分であった頃の彼女自身の残像であり、それは幻影のように消え去り、彼女はすべてを失ってしまう。
そして、最も複雑な構造を持ち、こうしたカポーティの表現スタイルが極められた観がある「無頭の鷹」。ニューヨークの画廊で働く男ヴィンセントは、ある娘と彼女が描いたという首を落とされた女と頭のない鷹の絵に出会ったとき、その絵のなかに彼自身のすべてが歪んだかたちで描かれているという強迫観念にかられ、
それほどに自分のことを知っている娘に惹かれていく。カポーティが繰り出す、眩暈を起こしそうな幻想的なイメージの本流は、ちょっと言葉にしようがないが、とにかく彼が、鏡のイメージを軸に物語を展開していることは、ヴィンセントと娘をめぐるこんな表現の流れから明らかにあることと思う。 ===>2ページへ続く |