トルーマン・カポーティ
Truman Capote


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「ヴィンセントは服を脱ぐと、きちんと箪笥にしまい、鏡をはめ込んだドアの前に突っ立って、自分の裸体に惚れぼれと見とれた」

「彼女の心は、がらんとした部屋の中で、青い空間を映し出している鏡のようだった」

「ああ、いったいなぜ彼は自分の愛する者の中にいつも自分自身のこわれた映像(イメージ)を見出さなければならないのか?」

 「無頭の鷹」の織り込まれたこのような鏡のモチーフの重層構造のなかで、ヴィンセントの内にあるゆがんだ自己が肥大化していき、彼は幻覚に翻弄されつくす。そして物語はこんなふうに結ばれる。 「やがて、ゆっくりとすり足で、あの娘が灯りの下にやって来て、彼の横に立つ。すると、空が、まるで、雷にひび割れた鏡のようになる。雨が粉々に砕けたガラスのカーテンのように、二人のあいだに落ちてきたのだ」。

 カポーティはこれらの作品で、鏡のモチーフを可能な限り様々にデフォルメして物語に織り込み、登場人物の孤独の向こうにある暗闇をとらえ、魂の一瞬の閃きを描き出す。登場人物たちは、デフォルメされた鏡に自己の姿を、 自分がまだ自分であった頃の自己を見出し、突発的な自己愛の衝動にかられる。そして鏡は冒頭で引用したように、”その奇妙なところへと、衝動が覗くものをかり立て、鞭打って追いつめ、望まぬ夢、歓迎されざる運命を強いる” のだ。

 それでは、自分が自分であった頃とは、いつを指しているのか。それは簡単にいえば、少女ミリアムやシルヴィアの子供時代の人形が物語っているように、子供の時代である。そこで、短編集「夜の樹」が全体としてひとつの意味を持つことになる。 この短編集は、大人の世界と子供の世界を扱った作品に大別できると先に書いたが、カポーティは、かなり明確にふたつの世界を描き分けている。

 「誕生日の子供たち」や「銀の酒壜」といった子供を扱った短編では、南部の土壌を背景に、 自由闊達で向くな子供たちの戯れを、ある種の透明感に満ちたスタイルで、愛情を込めて描いている。「夜の樹」には、社会に埋没し主体性を失った大人に対する嫌悪感とルールに縛られない野性味と神秘性を持った子供に対する愛着が表明されているのだ。

 

 
 


 そこでひとつの問題が浮上してくる。カポーティは、このふたつの世界のどこに身を置こうとしているのかということだ。その問題の解答が「遠い声 遠い部屋」ということになるが、その前に、この「夜の樹」から「遠い声 遠い部屋」への移行を別の角度からとらえてみたいと思う。

 カポーティは12歳の頃に、学校の校長から低能児呼ばわりされ、東部の大学で知能指数を調べたところ、天才のレベルであることが証明され、周囲の人々を驚かせたというエピソードがある。彼は、その時の喜びを後にこのように綴っている。 「鏡にうつった自分の姿を、体をまわしながら見つめたり、吸いこむようにして頬っぺたをへこませてみたり、ぼく自身に呼びかけて、フロベールに見たてて考えこんでしまったり――フロベールじゃなくて、モーパッサン、プルースト、チェーホフ、トマス・ウルフだったりすることもあったけど、 その頃憧れのまとだったいろんな人物とくらべてみた」

 両親の愛に恵まれることなく、多くの作家たちから世界観や文章のスタイルを学びとり、想像力が生む架空の世界を遊び場としていたカポーティ少年にとって、どうやら鏡はすでに不可欠のものであったようだ。そして「夜の樹」の短編を書いていた頃は、 鏡の向こうからフロベールやプルーストの幻影がひとつひとつ拭い去られると同時に、生々しい現実や体験が徐々に彼に迫り、ふたつの要素がある種のバランスを保っていた時期であるように思う。彼は、鏡の魔力を駆使し、現実との距離を保ちながら、 ひとつの極められたスタイルで、登場人物たちの孤独の向こうにある暗闇をとらえることができた。

 しかし、この微妙なバランスは永続するものではない。彼の鏡から様々な作家たちの幻影が消え去り、彼自身を鏡の向こうにしっかりと見据えなければならなくなるからだ。その結果が「遠い声 遠い部屋」である。カポーティのこの最初の長編は、「夜の樹」の主人公たちの代わりに、 カポーティ自身が鏡の前に立ち、自分自身の内なる暗闇をとらえる作品であると思う。この小説は、父親探しの旅に出た13歳のジョエルが、決定的に父親を喪失し、ゴシック仕立ての幻想的な世界のなかで、彼自身のアイデンティティを模索する物語である。

 この小説の結末には、よく同性愛が暗示されているといわれる。しかし果たして、ランドルフとは何者なのだろうか。たとえば、ジョエルの心象を綴るこんな一文は非常に暗示的である。

「またもしランドルフに話すにしても、いったい彼はだれに愛を告白していることになるのだろう? 蝿の目のように一つ一つ個眼を刻まれ、男でもなく女でもなく、どれが本当の正体ともわからず、変装のめくら探し袋(グラブ・バッグ)のようなこのランドルフとは、 そもそもだれであり、何者なのだろう? 人間X、こちらが勝手にクレヨンで性格を塗りこみ、理想の英雄として塗り上げてしまった輪部だけの男――英雄であれ何であれ、こちらで勝手に作り上げたものなのだ。現に、他からいっさい切り離され、目に見えず、耳にも聞こえないランドルフを想像しようとすると、 その姿は目に見えなくなり、どうにも心に描けないのだ」

 要するに、ランドルフとは、ジョエルの心の暗闇にひそむもろもろの情念、その断片の集積が鏡に映し出されたものなのだ。そして、このランドルフ像の振幅が次第に狭まり、結末で、ジョエルがまぎれもないジョエル自身になったとき、彼は、 いとおしい子供時代がすでに振り返って見なければならない場所に位置していることを痛感する。しかしそれでも彼は、大人になることを徹底的に拒絶し、ナルシスのような誠実さを持って自己愛に踏みだし、鏡の向こう側に永遠に ”美しい子供” を幻視することを求めるのだ。こうしてカポーティは、鏡の暗闇にとらわれ、鏡のオブセッションは、「カメレオンのための音楽」に至るまで連綿と受け継がれ、彼を苛むことになる。

  「遠い声 遠い部屋」に限らず、カポーティにはホモセクシャルという言葉がついてまわるが、それはまったく彼にふさわしくない。どう考えても彼のなかに、性差なるものが存在しているとは思えない。 ”美しい子供” を幻視するカポーティには、 性差といったレベルでの愛はいっさい存在しないのだ。たとえば彼は、好んで少女のような少年や少年のような少女を描くが、それは偏狭な性差に対するささやかな反発ともとれる。そしてカポーティの愛は、永遠の自己愛という狂気のなかに隠蔽されている。

 最後に、この鏡のオブセッションが特異な輝きを放つのが「冷血」である。カポーティ自らが ”ノンフィクション・ノヴェル” と呼ぶこの「冷血」は、狂おしいほどの極限の愛の物語と見ることができる。「一つのはかない幻からまた別のはかない幻へと進んでゆく、醜く、孤独な道程」を歩んできたペリー・スミス。 筆者が「冷血」のペリー・スミスに関する記述のなかで最も心惹かれるのは、彼のあまりに悲惨な過去を克明に綴る部分なのではなく、彼が時間をつぶす方法に関する次のような記述である。

「その一つは、鏡をジイッとのぞきこむことだった。ディックはかつてこういったことがある「おまえは鏡を覗いていると、いつでも失神状態にはいってるみたいだね。まるでものすごいお尻でも眺めているようだ。つまり、全然、退屈なんかしないんだろうな?」それどころか、 彼は自分自身の顔のとりこになってしまうのだ。角度を変えるたびに、自分の顔から違った印象を受けるのだった」

 ペリーは、文字どおりの鏡以外、彼が彼であることを証明するものを何も持ち合わせていない男である。そして彼は、刑務所でディックに出会う。男性的なディックに惹かれる女性的なペリー。ふたりの関係は、当初はホモセクシャルに近い。しかし、いざ罪のない4人の人間を殺す段になって、 ディックはペリーの前にひ弱な実体をさらけだしてしまう。そこで奇妙な倒錯が起こる。殺意のあったディックに代わって、殺意のなかったペリーが4人を殺害してしまう。

 「冷血」には、ペリーに対する精神鑑定の結果も記載され、それはそれで、ひとつの説得力を持ち合わせている。しかし、カポーティが「冷血」に刻み込みたかったのは、そうした実証的な見地に立ってペリーに共感を示すことではない。カポーティを惹きつけたのは、狂おしいまでの孤独と自己愛に閉ざされたペリーの魂が、 希望と絶望の交錯する極限状態で、鏡を除けば唯一、彼が彼であることを体感できるディックという鏡に吸い込まれるような愛のかたちだったのだ。

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