スパイク・リーの新作『インサイド・マン』は、マンハッタン信託銀行に立てこもった犯人グループと警察の駆け引きが意外な展開を見せるサスペンスである。その見どころは、グループのリーダーが仕掛ける完全犯罪だといえる(映画の冒頭で彼はそれをわれわれに確約する)。
銀行に押し入った4人組は、人質にした行員と客にジャンプスーツと覆面を配り、自分たちとまったく同じ格好をさせる。人質たちは、巧妙にシャッフルされ、次第に犯人との違いがわからなくなっていく。そして、腹の探り合いと交渉の果てに警官隊が突入した時、4人組のうち3人は人質のなかに完全に紛れ、リーダーは忽然と姿を消す。しかも、銀行の金は手つかずのままなのだ。
だが、スパイクの関心は、完全犯罪とは別のところにある。彼が才能を発揮する作品には共通点がある。まず、黒人のスポークスマンという立場を完全に離れ、冷静な眼差しで世界を見渡している。そして、ロバート・アルトマンのように限定された空間を生み出し、鋭い洞察によってそれを社会の縮図に変えていく。
『ドゥ・ザ・ライト・シング』では、ブルックリンのベッドスタイという地域と猛暑の組み合わせが、そこに暮らす様々な人々の偏見を炙り出す装置となる。彼らは、決して危険な差別意識の持ち主ではないが、ささやかな偏見が積み重なっていく時、そこに取り返しのつかない悲劇が起こる。『ゲット・オン・ザ・バス』では、階層も背景も異なる12人の黒人が、ミリオン・マン・マーチに参加するためにツアーバスに乗り込むが、いつしかその旅そのものが、本質的なミリオン・マン・マーチになっていく。彼らは、表層的で曖昧な団結によって気勢を上げるのではなく、お互いがいかに違うのかを認識することから、新たな一歩を踏み出すのだ。
『インサイド・マン』では、完全犯罪が装置となり、スパイクの視野がさらに広がっていく。犯人はシーク教徒の人質をメッセンジャーとして解放するが、警官たちはアラブ人だと思い込み、混乱状態に陥る。人質となった黒人の少年は、黒人のギャング同士が殺し合うグロテスクなテレビ・ゲームに熱中し、犯人グループのリーダーを閉口させる。このゲームは、スパイクが特注したもので、彼が、ギャングスタ・ラップやテレビ・ゲームに盛り込まれた暴力描写を批判していることを想起させる。
この映画から浮かび上がるのは、人種や階層、性別、年齢が異なる人々の間で繰り広げられる夥しい数の駆け引きである。他者との駆け引きが映画の本質だといっても過言ではない。自分の銀行の貸金庫に重大な秘密を保管している取締役会長は、政治力を行使する仲介人を雇い、自分を守ろうとする。仲介人は市長や刑事に圧力をかける。警察が仕掛けた盗聴器から流れてくるアルバニア語を訳すために、急場の間に合わせで呼び出された女は、違反切符を帳消しにするという交換条件を出す。刑事は、解放された人質から犯人の手がかりを得るために、彼らを故意に挑発し、そしてなだめる。
『インサイド・マン』の世界は、夥しい数の駆け引きを通して、ニューヨークの縮図と化していく。そして、その縮図には、「他者とは何か?」という問いが埋め込まれているのだ。
|