イシグロの新作『わたしたちが孤児だったころ』も30年代のロンドンから物語が始まり、日中戦争が激しさを増す上海へと舞台が変わる。意外なのは、主人公が探偵という設定だが、これもイシグロのなかで戦争の歴史と深く結びついている。
「探偵小説は10歳か11歳の頃から読んでいました。シャーロック・ホームズやアメリカの探偵小説が非常に好きでした。それを娯楽として読んでいたわけですが、この新作に取りかかる少し前に、(新作の物語と)同じ時代のイギリスの探偵小説を何冊かもう一度読み返してみて、子供の頃には気づかなかった新しい側面が見えてきたのです。アガサ・クリスティやドロシー・セイヤーズの当時の小説にはまず、とても理想的なイギリスの社会が出てきます。美しいイギリスの田園が舞台だったり、イギリス人が海外に旅行をする。そこには階級制度など秩序が保たれた整然とした世界がある。ところが殺人のような悪いことが起こり、秩序が壊される。探偵小説はいつの時代にも人気のあるものですが、私が興味深いと思ったのは、第一次大戦直後のイギリスで特に大きな盛り上がりをみせたことです。
イギリス人には強烈なトラウマが残っていました。初めて大戦という戦争の恐怖を体験し、政治の指導者が自分を見失い、ナショナリズムや人種差別主義、武力が支配し、たくさんの人間が死に、人々はイギリス社会がもうもとには戻らないと思うほどのショックを受けました。私は当時の世代は、探偵小説によって元気づけられ、その世界に逃避することで癒されていたのだと思います。その物語のなかでは、悪いことが起こって、美しく秩序あるイギリスがいかにして壊されるかがくり返し、くり返し語られる。しかし心配はいらない。探偵が現れて、秩序を回復してくれるから。探偵小説は、この歴史的な文脈において娯楽と同時に大いなる感動をもたらしてもいた。そこで、主人公の探偵が事件を解決すれば、世界の緊張も回避されるのではないかというアイデアが閃き、新作のひとつの出発点になったのです」
1900年代初頭、上海の租界で暮らしていたクリストファー少年は、両親の失踪によって孤児となり、イギリスに帰る。やがて探偵となった彼は、両親を探し出すために上海に戻ってくる。
主人公の人生の分岐点と歴史の大きな転換点が交差するという意味では、この新作は『日の名残り』を連想させるが、作品の本質はまったく違う。イシグロはこの2冊の間に『充たされざる者』という大胆な冒険を試みたシュールな作品を発表している。この小説では、主人公がカフカを連想させるような世界に引き込まれていくのだ。
「『日の名残り』と『充たされざる者』のあいだで、私の人生観や創作に大きな変化があったのだと思います。私の最初の3作品は、ある意味でほとんど同じ小説、似た物語です。同じものを3種類の視点で見ている。若い人間の考え方なのです。政治やモラルなどの価値観や信条が、人生のなかで未来を切り開くのを助け、導いてくれる、重要なことは正しい価値観を持つことだ。私は、多くの若者はそういうふうに考えていると思います。政治的な価値観について、夜遅くまで、眠ることなく議論をする。そこには確信がある。正しい価値観を選択すれば、よりよい人生を送ることができる。人生を正しい方向に向かって生きる機会が得られ、快く振り返ることができる。私の初期の作品はそのような感覚から出発していた。
しかし、『日の名残り』と『充たされざる者』のあいだで、そのようなモデルに不満を感じるようになった。いくら明確な道を歩んでも、そこには過ちがある。偶然や運にも委ねられている。だから、明確な道ではなく、森やジャングルのなかで道に迷い、方向性を見失うような、もっと混沌としてコントロールがきかない世界を描こうとした。人生や過去をコントロールすることがある種の幻想であるかのように。信条や価値観を持つのが重要であることはもちろん間違いないのですが、人が生きていくうえではもっと他の要素があり、岐路に立ったときに運や偶然が人生を決定することもある。選択した価値観のとおりに道は開かれない。そして『充たされざる者』を書き上げたあとに、今度はもっと従来の形式にしたがった小説、明確なプロットがあって、しかもミステリアスでコントロールがきかないというアイデアを引き継いだ作品を書きたいと思ったのです」
新作の主人公は、イギリスを舞台にした前半では、次々と事件を解決し、人生に対する確信に満ちている。しかし舞台が上海に移る後半では、その確信が混沌とした世界を作り上げていく。
「この小説の後半部分は、前半とは記憶の使い方が違います。後半にあるのは、子供時代を思い出すというような記憶ではありません。後半の書き方にはいくつかの選択肢がありました。(主人公の)クリストファーが訪れる上海をもっとリアルに描き、現実感のある体験とすることもできた。彼は、頭のなかにある秩序が狂っている可能性がある。彼はおかしくなって、両親を探し出すことによって世界を救えるという考えを持つ。私はそのことを、上海にいる人々をとおして明確にすることもできた。本来なら彼がそんなことを言うたびに、周囲の人間は怪訝そうに彼を見るはずです。私は、最初はそんなふうに描こうと考えました。しかし、もっと興味深く、しかも危険な方法を思いついた。
リアルな設定のなかで彼が狂っているのを描くのではなく、印象派の絵のように、彼の頭のなかでは世界がどのように見えているのかを描く。だから人々が、彼のことを狂っているかのように見ないようにした。上海は彼の欲求によって形を変えていく。そのため、この物語は読者にとってもひとつの挑戦となるはずです。作家としてはより危険な選択になりますが、私が最も興味をそそられたのは彼の頭のなかで世界がどのように見えているのかを描くこと。人々が、彼が狂っているのを発見するのではなく、彼が求めるものによって変貌する上海を描くことだったのです」
現代では視覚的なメディアが無限に増殖し、人々が内面よりも表層にとらわれている傾向がある。そういう意味でもイシグロの世界は興味深く思えるのだが、彼は、視覚的なメディアと自分の作品世界の関係をどう見ているのだろうか。
「私はかなりの映画好きで、映画は大きな可能性を秘めたメディアだと思います。実は1作目と2作目のあいだに、テレビドラマのシナリオを書く機会がありました。その経験が、視覚を通して物語を語ることと小説で語ることの違いを明確にしてくれました。その経験をしてから、小説が、映画やテレビの番組から得られるのとはまったく違う体験を読者に提供するものであることが重要だと思うようになりました。私は最初の小説に不満をおぼえました。テレビのシナリオに通じる表現だったからです。そこで私は、映画には不可能で小説が提供できるのは、どのような表現かを考えるようになりました。私たちは、文化としての視覚的なメディアに支配された世界に生活しているため、それを考えることは重要だと思います。小説独自の体験を生みだす方法を発見するために努力しました。活字メディアは人間の内面に入り込み、内的な世界を構築することができる。書く場合には、映画に翻訳不可能な表現を心がけています。但し、小説を書き上げたあとでは、エージェントに映画化権はどうなっているかと尋ねたりしますが(笑)。
しかし小説と視覚的なメディアは対立しているわけではありません。現代では映像文化によってたくさんのイメージが読者にとって身近なものになっている。だから舞台や物事について細かく描写する必要がない。たとえば、世界の人々がイギリス人の執事のイメージを持っている。小説家はそのイメージを利用し、操作することによって、これまでよりも容易に異なる世界を構築することができるのです」 |