わたしを離さないで / カズオ・イシグロ
Never Let Me Go (2005) / Kazuo Ishiguro


2006年/土屋政雄訳/早川書房
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(初出:「STUDIO VOICE」2006年7月号)

 

 

ほのめかしと思い込みのなかで

 

 カズオ・イシグロの新作『わたしを離さないで』のヒロインは、ヘールシャムと呼ばれる施設で育った31歳の介護人キャシー。彼女が記憶をたぐりながら語ろうとするのは、「保護官」とか「提供」という表現やアルファベットで表記される生徒の姓などが違和感を漂わせることを除けば、寄宿学校における青春の日々のようにも見える。だが次第に、その違和感がSF的な設定に繋がっていく。

 イシグロは、この小説で完全に新たな次元へと踏み出している。それは、リアリズムを基調とする『日の名残り』から、カフカを想起させる『充たされざる者』や探偵小説にインスパイアされた『わたしたちが孤児だったころ』へと変貌を遂げてきた彼が、今度はSF的な世界を切り開いたということではない。

 彼が追求するものの本質は変わっていない。『日の名残り』の執事は、邸内で催される外交会議によって、「世界という車輪の中心」にいたことを自負する。『充たされざる者』の音楽家は、求心力を失いかけた町のなかで救世主に祭り上げられていく。『わたしたちが孤児だったころ』の探偵は、失踪した両親を探すうちに、世界の破滅を回避する責任を背負っている。

 そうした状況は、新作に出てくる表現を借りるなら、“ほのめかしと思い込み”から生じる。これは、記憶をどこまでも掘り下げていくイシグロが見出した相互作用といえる。彼は、リアリズムを放棄して主人公の頭のなかに入り込み、その作用が生む期待によって、主人公の使命が変質する過程をつぶさに描き出す。そして、重大な使命が幻想と化していくとき、人間の本性が露になる。

 『わたしを離さないで』にも、ほのめかしと思い込みが随所に散りばめられている。しかしそれは、キャシーの頭のなかにあるのではなく、ヘールシャムの保護官と生徒、生徒同士、あるいはヘールシャム出身者と他の施設の出身者との間にある。

 先述したように、この小説からはSF的な設定が浮かび上がってくるが、読者は、そのことに驚くのではなく、驚かないことに驚く。そして、生徒たちと世界を共有していることに気づく。キャシーは、このように語っているのだ。「成長して、保護官からいろいろなことを知らされたとき、そのどれにも驚かなかったのはなぜか」


◆プロフィール◆

カズオ・イシグロ
1954年11月8日長崎市生まれ。1960年、5歳のときに海洋学者の父親の仕事の関係でイギリスに渡る。以降、日本とイギリスの2つの文化を背景にして育ち、ケント大学で英文学を、イースト・アングリア大学大学院で創作を学ぶ。はじめはロック・ミュージシャンを目指すが、やがてソーシャル・ワーカーとして働きながら、1981年から執筆活動を開始する。長編デビュー作『遠い山なみの光』(改題『女たちの遠い夏』)は王立文学協会賞を受賞し、9カ国語に翻訳された。つづき、1986年に発表した『浮世の画家』でウイットブレッド賞を受賞。長編第3作の『日の名残り』(1989)で、イギリス最高の文学賞であるブッカー賞を受賞した。国境を越えたその普遍の文学性で、イギリスのみならず世界中からもっとも注目される作家である。

 

 


 これまでの作品との違いはそれだけではない。最も重要なのは、ヘールシャムの生徒には、彼らが人間である以前に使命があることだ。しかも、保護官が彼らに使命を植え付けるだけではなく、期待もかけていたことが、彼らの立場をより複雑にする。

 ヘールシャム出身者は、根拠もないのに、特別な可能性を秘めた存在とみなされ、キャシーと親友は、ほのめかしと思い込みが生む期待とともに、その可能性に挑戦していく。そして、使命が幻想と化して人間が露になるのとは正反対の物語が紡ぎ出される。イシグロは、既成のSFとは一線を画す極めて日常的な世界を構築することによって、ディストピアや利己的な社会に対する単純な批判を回避し、人間とは何かを問うのだ。

《参照/引用文献》
『日の名残り』カズオ・イシグロ●
土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫、2001年)
『充たされざる者』カズオ・イシグロ●
古賀林幸訳(ハヤカワepi文庫、2007年)
『わたしたちが孤児だったころ』カズオ・イシグロ●
入江真佐子訳(早川書房、2001年)


(upload:2009/03/19)
 
 
《関連リンク》
カズオ・イシグロ・インタビュー 『わたちたちが孤児だったころ』 ■
カズオ・イシグロ 『夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』 レビュー ■
映画『上海の伯爵夫人』レビュー ■

 
 
 
 
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