それでは、『上海の伯爵夫人』の場合はどうなのか。これは、映画に翻訳不可能なイシグロの小説の映画化ではなく、イシグロが自分の世界を最初から映像で語るために書き下ろした脚本に基づく作品であり、そこからは人物の内的な世界が見えてくる。
イシグロの物語の特徴は、彼の新作『わたしを離さないで』に出てくる表現を借りるなら、“ほのめかしと思い込み”にある。物語の語り手である主人公は、ささやかなほのめかしと思い込みを繰り返し、積み上げていくうちに、いつしか自分が重大な使命を背負っているという錯覚に陥っていく。
『日の名残り』の執事は、邸内で催される外交会議が「世界という車輪の中心」だと自負し、女中頭への想いを見失い、あるいは打ち消す。『充たされざる者』の音楽家は、求心力を失った町のなかで救世主に祭り上げられ、他者に姿を変えて現れる妻子との絆を失っていく。『わたしたちが孤児だったころ』の探偵は、失踪した両親を探し出すことで世界の破滅を回避できるという思いに囚われ、彼の運命を変えたかもしれない女性を失う。
『上海の伯爵夫人』のジャクソンにも、それらに通じる意識の流れがあるが、この物語は、まったく同じ舞台を背景にした『わたしたちが孤児だったころ』と特に深い繋がりを持っている。イシグロは、探偵が両親の捜索に乗り出す小説の後半で、現実ではなく、錯覚に囚われている彼だけに見える世界を描いた。彼の発言を引用すれば、「上海は彼の欲求によってかたちを変えていく」ということだ。 そして、『上海の伯爵夫人』では、そういう意味での内的な世界が、映像によって描き出される。
同じ晩にマツダとソフィアに次々に出会ったジャクソンのなかでは、マツダの正体もソフィアの容姿もわからないままに、ほのめかしと思い込みによって夢のバーが現実味を帯びる。すると全財産を賭けた競馬で勝つという非現実的なことが起こり、彼はバーを開き、オーケストラの指揮者のように世界をコントロールする。しかも、彼が目を背けてきた政治的緊張すらそこに引き込み、秩序を取り戻すという幻想に溺れていく。だがやがて彼は、“白い伯爵夫人”という店と生身の伯爵夫人の二者択一を迫られる。
アイヴォリーとイシグロの緻密なコラボレーションから生まれたこの映画には、一見正統的に見えるドラマのなかに、内的な世界が実に巧妙に埋め込まれているのだ。 |