上海の伯爵夫人
The White Countess  The White Countess
(2005) on IMDb


2005年/イギリス=アメリカ=ドイツ=中国/カラー/136分/ヴィスタ/ドルビーデジタル・DTS・SDDS
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(初出:「キネマ旬報」2006年10月下旬号)

 

 

現実と内的な世界の狭間で

 

 カズオ・イシグロのオリジナル脚本を映画化したジェームズ・アイヴォリー監督の『上海の伯爵夫人』では、戦争の足音が迫る30年代の上海を舞台に、3人の人物が絡み合う。

 かつては“国連の最後の希望”と称えられた外交官だったが、不条理な暴力によって妻子と視力を失い、無為な日々を送るアメリカ人ジャクソン。ロシア革命によって亡命を余儀なくされ、家族を養うためにクラブでダンスのパートナーをつとめる伯爵夫人ソフィア。そして、人を動かす影響力を持つ正体不明の日本人マツダ。混迷を極める世界に絶望したジャクソンは、彼が夢見ていたバー“白い伯爵夫人”をオープンさせ、ソフィアは店の華となり、マツダは店を完璧な世界にするために協力する。だが、その上海にいままさに戦火が及ぼうとしている。

 アイヴォリーは以前にイシグロの『日の名残り』を映画化しているが、彼が強い関心を持つ作家には共通点がある。ヘンリー・ジェームズもE・M・フォスターもイシグロも、それぞれの体験から国際的な視点を培い、異国や異文化のなかを彷徨う人物、あるいは、国家や階層、ジェンダーなどをめぐる境界に立たされる人物の意識を掘り下げている。彼らの小説の背景となる社会的な状況は、映画においても大きな魅力となるが、一方で、人物の内的な世界を映像で表現することは決して容易なことではない。しかしだからこそ、アイヴォリーは、こうした作家たちの作品に創作意欲を刺激されてきたのだろう。

 筆者はイシグロにインタビューしたことがあるが、そのとき話は小説と映画の違いにも及んだ。彼は、1作目(『遠い山なみの光』)と2作目(『浮世の画家』)の間にテレビドラマのシナリオを書く機会があり、その体験によって、映像で語ることと小説で語ることの違いが明確になり、小説独自の表現を探求するようになった。「活字メディアは人間の内面に入り込み、内的な世界を構築することができる。だから書くときには、映画に翻訳不可能な表現を心がけています」

 映画化された『日の名残り』は、長年に渡ってアイヴォリーと組んできたジャブヴァーラの脚本もドラマもよくできていたが、主人公の執事の内的な世界に深く踏み込んではいなかった。原作の主人公は、現在と過去を往復するのではなく、その狭間で様々な感情がせめぎ合い、無意識のうちに記憶を操作している。だが、それを強引に映画に取り込もうとすれば、ドラマはバランスを欠き、文学的な味わいを失ってしまうことだろう。


◆スタッフ◆

監督   ジェームズ・アイヴォリー
James Ivory
脚本 カズオ・イシグロ
Kazuo Ishiguro
製作 イスマイル・マーチャント
Ismail Merchant
撮影監督 クリストファー・ドイル
Christopher Doyle
編集 ジョン・デヴィッド・アレン
John David Allen
音楽 リチャード・ロビンス
Richard Robbins

◆キャスト◆

ジャクソン   レイフ・ファインズ
Ralph Fiennes
ソフィア ナターシャ・リチャードソン
Natasha Richardson
マツダ 真田広之
Hiroyuki Sanada
サラ ヴァネッサ・レッドグレイヴ
Vanessa Redgrave
オルガ リン・レッドグレイヴ
Lynn Redgrave
カティア マデリーン・ダリー
Madeleine Daly
グルーシェンカ マデリーン・ポッター
Madeleine Potter
サミュエル アラン・コーデュナー
Allan Corduner
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(配給:ワイズポリシー/東宝東和)
 

 それでは、『上海の伯爵夫人』の場合はどうなのか。これは、映画に翻訳不可能なイシグロの小説の映画化ではなく、イシグロが自分の世界を最初から映像で語るために書き下ろした脚本に基づく作品であり、そこからは人物の内的な世界が見えてくる。

 イシグロの物語の特徴は、彼の新作『わたしを離さないで』に出てくる表現を借りるなら、“ほのめかしと思い込み”にある。物語の語り手である主人公は、ささやかなほのめかしと思い込みを繰り返し、積み上げていくうちに、いつしか自分が重大な使命を背負っているという錯覚に陥っていく。

 『日の名残り』の執事は、邸内で催される外交会議が「世界という車輪の中心」だと自負し、女中頭への想いを見失い、あるいは打ち消す。『充たされざる者』の音楽家は、求心力を失った町のなかで救世主に祭り上げられ、他者に姿を変えて現れる妻子との絆を失っていく。『わたしたちが孤児だったころ』の探偵は、失踪した両親を探し出すことで世界の破滅を回避できるという思いに囚われ、彼の運命を変えたかもしれない女性を失う。

 『上海の伯爵夫人』のジャクソンにも、それらに通じる意識の流れがあるが、この物語は、まったく同じ舞台を背景にした『わたしたちが孤児だったころ』と特に深い繋がりを持っている。イシグロは、探偵が両親の捜索に乗り出す小説の後半で、現実ではなく、錯覚に囚われている彼だけに見える世界を描いた。彼の発言を引用すれば、「上海は彼の欲求によってかたちを変えていく」ということだ。 そして、『上海の伯爵夫人』では、そういう意味での内的な世界が、映像によって描き出される。

 同じ晩にマツダとソフィアに次々に出会ったジャクソンのなかでは、マツダの正体もソフィアの容姿もわからないままに、ほのめかしと思い込みによって夢のバーが現実味を帯びる。すると全財産を賭けた競馬で勝つという非現実的なことが起こり、彼はバーを開き、オーケストラの指揮者のように世界をコントロールする。しかも、彼が目を背けてきた政治的緊張すらそこに引き込み、秩序を取り戻すという幻想に溺れていく。だがやがて彼は、“白い伯爵夫人”という店と生身の伯爵夫人の二者択一を迫られる。

 アイヴォリーとイシグロの緻密なコラボレーションから生まれたこの映画には、一見正統的に見えるドラマのなかに、内的な世界が実に巧妙に埋め込まれているのだ。

《参照/引用文献》
『日の名残り』カズオ・イシグロ●
土屋政雄訳(早川書房、2001年)
『充たされざる者』カズオ・イシグロ●
古賀林幸訳(早川書房、1997年)
『わたしたちが孤児だったころ』カズオ・イシグロ●
入江真佐子訳(早川書房、2001年)
『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ●
土屋政雄訳(早川書房、2006年)

(upload:2007/11/11)
 
 
《関連リンク》
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