夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 / カズオ・イシグロ
Nocturnes: Five Stories of Music and Nightfall / Kazuo Ishiguro (2009)


2009年/土屋政雄訳/早川書房
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(初出:Into the Wild 1.0 | 大場正明ブログ 2009年7月6日更新)

音楽への純粋な情熱としがらみ、そして歴史の流れ

  カズオ・イシグロの初の短編集『夜想曲集』は、「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」という副題が示唆するように、それぞれの短編は、独立した話でありながらテーマや状況に繋がりがある。

  主人公はほとんどが音楽家だ。そうでない場合は、音楽の趣味が主人公たちを結びつけている。イシグロはミュージシャンを目指していたこともあるので、音楽に関する描写は、自然であり生き生きとしている。

  夕暮れは、物語の設定だけではなく、登場人物たちの状況を象徴してもいる。ほとんどの短編に、夫婦や男女の関係の危機や別れがある。イシグロは、このふたつの要素を巧みに結びつけていく。

 たとえば第一篇の「老歌手」では、ベネチアのサンマルコ広場でバンドを渡り歩くギタリストのヤネクが、アメリカの大物歌手トニー・ガードナーに出会う。ヤネクは、ガードナーに心酔していた母親に影響され、彼の大ファンになった。ガードナーに出会い、言葉を交わすヤネクは、興奮を抑えることができない。

 だが、ガードナーと妻のリンディにとって、それは最後の旅行だった。老歌手はもはや純粋に音楽に生きることはできない。カンバックし、名声を維持していくためには、愛や私生活を犠牲にしなければならないのだ。

  音楽に対する純粋な情熱としがらみは、この短編集のひとつのポイントになる。第三篇の「モールバンヒルズ」では、シンガーソングライターを目指す主人公の若者が、音楽家夫婦に出会う。これまで様々な土地で演奏してきた夫婦の間では、音楽に対する考え方の違いから亀裂が広がりつつある。

  第四篇「夜想曲」の主人公は、豊かな才能と実力があるのに芽が出ない中年のサックス奏スティーヴ。これまで彼は、自分よりレベルの低いジャズマンが成功し、賞に輝いても、不条理な現実を受け入れてきたが、恋人が他の男に乗り換えたことで迷いが生じ、整形手術を受けてしまう。顔を包帯で覆われ、一流ホテルの秘密階で過ごす彼はそこで、「老歌手」にも登場したリンディに出会う。ガードナーと別れた彼女も整形をしていた。そしてスティーヴは、ゴシップによってセレブリティでありつづけるリンディと行動をともにするうちに、自分の決断を後悔するようになる。


◆目次◆

01.   老歌手
   
02. 降っても晴れても
   
03. モールバンヒルズ
   
04. 夜想曲
   
05. チェリスト
   
  訳者あとがき

 

 この短編集は、その時代背景も興味深い。訳者あとがきによれば、イシグロは「ベルリンの壁の崩壊から9・11まで」を想定していたという。当初、六篇を収める予定だったのに、一篇だけ設定が1950年代になったためにそれを外したというエピソードにも、時代に対するこだわりが感じられる。

  イシグロは、歴史と物語の関係に強い関心を持っている。かつて筆者が彼にインタビューしたとき、探偵小説を下敷きにした『わたしたちが孤児だったころ』について、このように語っていた。

探偵小説はいつの時代にも人気のあるものですが、私が興味深いと思ったのは、第一次大戦直後のイギリスで特に大きな盛り上がりをみせたことです。イギリス人には強烈なトラウマが残っていました。初めて大戦という戦争の恐怖を体験し、政治の指導者が自分を見失い、ナショナリズムや人種差別主義、武力が支配し、たくさんの人間が死に、人々はイギリス社会がもうもとには戻らないと思うほどのショックを受けました。私は当時の世代は、探偵小説によって元気づけられ、その世界に逃避することで癒されていたのだと思います。その物語のなかでは、悪いことが起こって、美しく秩序あるイギリスがいかにして壊されるかがくり返し、くり返し語られる。しかし心配はいらない。探偵が現れて、秩序を回復してくれるから。探偵小説は、この歴史的な文脈において娯楽と同時に大いなる感動をもたらしてもいた。そこで、主人公の探偵が事件を解決すれば、世界の緊張も回避されるのではないかというアイデアが閃き、新作のひとつの出発点になったのです

  この短編集でも、まったく違った意味で、歴史的な文脈が意識されているように思える。「老歌手」のヤネクは、ベルリンの壁の崩壊のあとで、旧共産圏から西側に出てきた。第五篇「チェリスト」の主人公であるチェリストのティポールも、旧共産圏で育ち、西側に出てきたハンガリー人だ。音楽に対して純粋な情熱を持つ主人公たちは、しがらみに囚われた音楽家や崩壊を予感させる男女の関係を見つめる。そんな物語には歴史の流れを垣間見ることができる。


(upload:2012/01/10)
 
《関連リンク》
カズオ・イシグロ・インタビュー 『わたしたちが孤児だったころ』 ■
カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』 レビュー ■

 
 
 
 
 
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