カズオ・イシグロの初の短編集『夜想曲集』は、「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」という副題が示唆するように、それぞれの短編は、独立した話でありながらテーマや状況に繋がりがある。
主人公はほとんどが音楽家だ。そうでない場合は、音楽の趣味が主人公たちを結びつけている。イシグロはミュージシャンを目指していたこともあるので、音楽に関する描写は、自然であり生き生きとしている。
夕暮れは、物語の設定だけではなく、登場人物たちの状況を象徴してもいる。ほとんどの短編に、夫婦や男女の関係の危機や別れがある。イシグロは、このふたつの要素を巧みに結びつけていく。
たとえば第一篇の「老歌手」では、ベネチアのサンマルコ広場でバンドを渡り歩くギタリストのヤネクが、アメリカの大物歌手トニー・ガードナーに出会う。ヤネクは、ガードナーに心酔していた母親に影響され、彼の大ファンになった。ガードナーに出会い、言葉を交わすヤネクは、興奮を抑えることができない。
だが、ガードナーと妻のリンディにとって、それは最後の旅行だった。老歌手はもはや純粋に音楽に生きることはできない。カンバックし、名声を維持していくためには、愛や私生活を犠牲にしなければならないのだ。
音楽に対する純粋な情熱としがらみは、この短編集のひとつのポイントになる。第三篇の「モールバンヒルズ」では、シンガーソングライターを目指す主人公の若者が、音楽家夫婦に出会う。これまで様々な土地で演奏してきた夫婦の間では、音楽に対する考え方の違いから亀裂が広がりつつある。
第四篇「夜想曲」の主人公は、豊かな才能と実力があるのに芽が出ない中年のサックス奏スティーヴ。これまで彼は、自分よりレベルの低いジャズマンが成功し、賞に輝いても、不条理な現実を受け入れてきたが、恋人が他の男に乗り換えたことで迷いが生じ、整形手術を受けてしまう。顔を包帯で覆われ、一流ホテルの秘密階で過ごす彼はそこで、「老歌手」にも登場したリンディに出会う。ガードナーと別れた彼女も整形をしていた。そしてスティーヴは、ゴシップによってセレブリティでありつづけるリンディと行動をともにするうちに、自分の決断を後悔するようになる。
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