[以下、本作の短いレビューです]
監督のユヴァル・アドラーもクレジットされているが、中心になって脚本を手がけたであろうライアン・コヴィントンは、本作の着想について、「あるアウシュヴィッツ生存女性がドイツ人の演説を聞くだけでPTSDの症状が出てしまうというインタビュー記事からインスピレーションを受け、生存の女性たちがいかにトラウマと向き合い、克服しようとしたか、また人間性の喪失と大量虐殺のあとに、どのようにして人生を立て直したかに興味を持ったんだ」(プレスより)と語っている。だが、ロマン・ポランスキーの『死と処女(おとめ)』が下敷きになっていると考えるのが自然だろう。
本作で注目したいのは二点。ひとつは、冒頭でマヤが公園に響く指笛を耳にして心がざわついたすぐ後、まだ平穏な日常が揺らぐ以前のエピソードだが、そこにはテーマに深くかかわる視点が埋め込まれている。
開業医であるマヤの夫ルイスが、街に越してきて工場で働く男性患者を診察している。その患者は両足がなく、沖縄戦で失ったと語る。これに対してルイスは、自身の従軍経験について、戦後になってから復興支援でギリシャの陸軍病院にいたと説明する。そんなやりとりをしているところに、助手として夫の仕事を手伝っているマヤが現れ、注文する薬品などを確認する。患者に妻を紹介したルイスは、「越したばかりの彼を夕食に招こう」とマヤに提案し、彼女も承諾する。その晩、就寝前にマヤは、なぜ彼を招待したのか夫に尋ねる。さらに、「同情しちゃ失礼よ、困ってたわ」とも語る。
このエピソードでは、3者の戦争経験の違いが示唆されている。患者は、ルイスが招待のことを切り出す以前から、工場での待遇のことなどを気にかける医師に対して「気遣いは無用ですよ」と語っている。しかし、復興支援で戦争に関わっただけのルイスは、あくまで善意からではあるがこの患者を特別な目で見ているため、夕食に招待する。ルイスは、マヤが重い過去を背負っていることをまだ知らないが、彼女は過去を背負った人間の立場から、患者を招待する夫にやんわりと注意を促している。
これはささやかなエピソードに見えるが、結末への伏線になっている。悪夢を実際に体験したマヤとそれを想像するしかないルイスの間で、次第に溝が広がる。体験した者には免疫があるため、土壇場で冷静になることもできるが、想像するしかない者は、悪夢の重みに耐えられなくなる可能性もあるということだ。
もうひとつの注目点は、かつてマヤと妹を襲った悲劇が、ナチスが敗れてソ連軍が侵攻し、彼女たちが収容所からルーマニアを目指す途上で起こったということだ。マヤがロマという設定になっているのは、ナチスがユダヤ人だけではなくロマも迫害したからだが、戦争末期の混乱のなかで起こったこの悲劇では、そんな背景がいくらか曖昧になるようにも思える。彼女が憎み、復讐しようとするのは、ナチズムを体現するカールと呼ばれていた軍人なのか、規律が崩壊して暴虐の限りを尽くす敗残兵なのか。
作り手が意図してこのような悪夢の設定にしたのであれば、興味がふくらむ。たとえば、マヤと同じように収容所に送られた(と思われる)妹以外の家族はどうなったのか。彼女が背負う重い過去は、よみがえる悪夢だけではないように思える。もし彼女が、他にもロマとしての苦悩を背負っているにもかかわらず、カールという男に復讐することでそれをすべて清算しようとしていたのであれば、彼女の葛藤は歪みも含まれる複雑で深いものになるが、このドラマを見る限りではそういう狙いがあるようには感じられない。そこまで突き詰めていれば、本作は『死と処女(おとめ)』とは違う、オリジナルな作品になっていたのではないか。 |