このダークなヒロインは、ロザムンド・パイクにぴったりのキャラクターに見える。マーラには、デヴィッド・フィンチャーの『ゴーン・ガール』でパイクが演じたエイミーに通じるものがある。エイミーは、あらゆる偽装工作を駆使して現実を捻じ曲げていく。マーラも、女医やケアホームと結託し、優秀な法廷後見人として裁判所を味方につけ、高齢者たちを半ば強引にケアホームに閉じ込め、携帯もていよく取り上げ、彼らの資産を自分のものにしていく。
高齢者を食いものにするビジネスモデルは、徹底的な合理化や効率化が非人格化や脱人間化へとつながっていく現代社会に対する痛烈な風刺になっている。ただし、エイミーと比べると、マーラのキャラクターは、その背景や輪郭などいささか曖昧な印象を受ける。それは、本作に盛り込まれたテーマとも無関係ではないだろう。
その冒頭では、自分の母親がマーラの罠にはまり、引き離されてしまった息子が、憤慨してマーラに食って掛かる。その言動には女性蔑視が表れている。ツバをかけられたマーラは、彼にこのように言い放つ。「女に負けたのが悔しい? 男だからって、私を脅かしたり、体にふれたり、またツバを吐いたら、あんたの●●●を引きちぎってやる。いいわね」。マーラにはミサンドリー(男性嫌悪)の傾向があり、エイザ・ゴンザレス扮するフランが公私にわたるパートナーになっている。
そんなふうにジェンダーというテーマを盛り込むことで、ロシアン・マフィアのボス、ローマンを小人症の人気俳優ピーター・ディンクレイジが演じていることも興味深くなる。ここでマチズモ(男性優位主義)を体現するようなボスが登場してきたら、男性対女性の単純な図式に回収されてしまったかもしれないが、母親思いでスイーツを好むらしいこのボスの存在は、異なる展開を予感させる。
そして、もうひとつのポイントになるのが、大切なものを奪われる痛みだ。それは、先述した冒頭のエピソードにも表れているが、マーラとローマンが初めて対面する場面でさらに強調される。ローマンは、マーラの母親の動画を彼女に見せて、彼女だけでなく母親も殺すと脅して、口を割らせようとする。ローマンにとっては、母親を奪われることは痛みとなる。だが、マーラは、自分の母親のことを毒親と呼び、まったく意に介さない。
結果としてローマンは、マーラのことを何事にも動じない肝の据わった女と見るようになるが、この場面にはやはり違和感が残る。ローマンは、マーラにフランというパートナーがいることを当然知っているが、マーラの前にフランを突き出して殺すと脅すようなことをせず、ふたりを別々に始末しようとするからだ。フランも狙われたことで確かにマーラも動揺を見せはするが、彼女たちの関係は別枠で扱われる。
皮肉な書き方をすれば、マーラだけは、大切なものを奪われる試練を巧妙に免除される。そこが、現実に何の未練もなく、ただ奪うことに徹するエイミーとは違う。何事にも動じない肝の据わったキャラクターを守り、かつジェンダーというテーマも生かすためにはそれも仕方なかったのだろう。ちなみに、本作のラストはその報いと見ることもできる。 |