注目したいのは、メリーの活動がスリランカの内戦から始まることだ。彼女は、タミル・イーラム解放のトラの戦士たちと移動中に、待ち伏せていた政府軍の攻撃を受ける。そのとき彼女は、両手を上げて立ち上がり、「武器は持っていない、アメリカ人記者」と叫ぶ。なぜそうするのかといえば、これまでは身の安全を確保するために有効だったからだろう。しかし彼女は、砲撃によって左目の視力を失う。
このエピソードは、戦場における記者の立場が変わり目にあることを示唆し、その後はさらに悪化していく。アラブの春で揺れるリビアでは、メリーの上司ショーンから彼女に、「記者が狙われている。前線に行くな」というメールが届き、彼女の同志ノームが命を落とす。シリアでも記者が標的にされ、メリーは市民とともに追い詰められていく。
メディアによる事実の歪曲と真実の探求については、その表現が間接的で目立たないが、メリーを理解するヒントになると思えるので補足しておきたい。本作の導入部では、メリーのパソコンがフリーズし、それに気づいたケイトが手助けをする。彼女はイラクのホテルでもパソコンのトラブルに見舞われ、ファイルの回復をカメラマンのポールに頼む。また、戦渦に巻き込まれた人々を取材するときには、ノートにメモを取る。
メリーはテクノロジーに疎かった。それは、テクノロジーが急速に進化し、インターネットやSNSが紛争にも大きな影響を及ぼす時代には、足枷にもなりかねない。メリーもそれを自覚していたようで、本作のもとになったヴァニティ・フェア誌の記事によれば、TwitterやYouTubeによって急速に変化する世界のなかで、自分を時代遅れの記者のように感じることもあったという。
しかし、ハイネマンはそのことをむしろ彼女の強みととらえている。進化するテクノロジーによって、世の中にはプロパガンダやフェイクニュースが溢れかえり、何が真実なのかわからなくなっている。だからこそ、自身が標的にされることを覚悟で戦場に向かい、真実を見極めようとする彼女の姿勢が重要になる。人と直接的に繋がるために行動する彼女には、テクノロジーは重要なものではなかったのだろう。
そして、個人の力の限界をめぐる葛藤については、終盤のシリアで、メリーがなぜライブ中継というこれまでとは違う手段を選ぶのかを考えてみる必要がある。それは、単に状況が切迫しているからだけではなく、個人的な葛藤があるからだ。
見逃せないのは、その少し前の場面で、メリーが赤ん坊を抱えた母親から「紙に書くだけでなく、子供が死んでいることを世界に伝えて」と要望されていることだ。二度の流産を経験しても子供を望んでいた彼女は、目の前の幼い命を救えないことに無力感を覚え、その場から世界に訴えかける手段を選択するのだろう。
ハイネマンが現代における戦争を意識してメリーに迫った本作は、戦渦に巻き込まれた市民の立場から真実を探求することが、いかに重要であり、ますます危険で困難になっているのかを物語っている。 |