『トリック』では、母親と姉と暮らす少年が、駅である男性を見かけ、記憶はないものの一家を捨てた父親だと確信し、様々なトリックを仕掛けて彼を母親のもとに誘導しようとする。この映画でも少年の大胆な行動とともに観察力が強調される。彼は、老人が飼う鳩の群れが、老人が指を鳴らせば飛び立つのに、自分がやっても反応がないことにこだわり、観察によって鳩を飛ばせるようになる。
そんな『目を細めて』と『トリック』で、主人公が打破する必要に迫られる現状とは、共産主義から資本主義へと移行した社会だった。『目を細めて』の少女は、資本主義の世界で自分なりに生きるヒントをつかむ。『トリック』では、少年の行動と試行錯誤が、資本主義への移行によって活力を失いかけた田舎町に求心力を生み出していく。
これに対して『イマジン』では、より普遍的な地平でそんな独自の世界観が浮き彫りにされていく。登場人物たちは、イアンに刺激され、闇の世界を打破しようとする。できることなら白杖なしで外の世界を歩きたい。だが、それを実行するにはリスクが伴い、聴力を駆使した鋭い観察が要求される。
そんなドラマはまさにヤキモフスキの世界だが、この映画にはもうひとつ、見逃せない要素がある。それはイアンが真実に紛れ込ませる嘘だ。エヴァは、イアンが窓辺に鳥を呼び寄せる音をきっかけに彼に関心を持つが、実はそこに鳥はいない。イアンはあたかもそこに鳥がいるような音を作っている。それでも嘘から広がる想像が観察の原動力になっていく。
それだけではない。この映画の後半では、すぐ近くに港があり、大型の客船が停泊しているというイアンの言葉が、本当かどうかが問題になる。その答えを自分で確かめられなければ、目の見える人間に聞けばいいと思うかもしれない。しかし、目が見えるからといってすべてが見えているとは限らない。盲目の人間の方が、エンジン音や潮の匂いをとらえる聴覚や嗅覚が研ぎ澄まされているかもしれない。
さらにそれを突き詰めると、真実とはなにかという疑問も生まれる。私たちは、あまりにも視覚に支配されすぎているのではないか。R・マリー・シェーファーは『世界の調律――サウンドスケープとはなにか』のなかでこのように書いている。「西洋においては、ほぼルネサンス期に、印刷技術と遠近法の発達と共に、耳は目にその最も重要な情報収集器としての地位を譲り渡した」
さらにシェーファーは、J・C・Carothersの“Culture, Psychiatry, and the Written Word”から、以下のような文章を引用している。「農村地帯のアフリカ人は、おもに音の世界に生きている。その世界とは、そこに住む人間がある音を聞いた場合、その音が直接彼自身に関わる意味を持っているような世界である。それに反し、西欧の人間は、彼自身とは概して関わりのない視覚的世界に住んでいる。……西欧では音のこうした意味の大部分が失われている。西欧では、人は音を全く気にしない驚くべき能力を持つことが多いし、また持たねばならないのである」
私たちは目に見える真実に縛られる必要はない。ヤキモフスキ監督にとって重要なのは、“心の目”に見えるものであり、それはリスクを伴う行動と鋭い観察力がないと見えてこないものなのだ。
※ エコーロケーション(反響定位)に興味をお持ちの方は、ヤナ・ヴィンデレンの『アウト・オブ・レンジ』やアンドリュー・バードの『エコーロケーションズ:キャニオン』をチェックされると、より想像が広がるかもしれません。 |