ボアズ・イェーキン監督の『フレッシュ』は、出口のない黒人社会を題材にした映画のなかでも、ちょっと異色の新鮮な魅力を放っている。アメリカ映画界では、数年前に黒人の若手監督たちが台頭しはじめ、ハリウッドでもブラック・ムーヴィーが盛り上がりを見せることになった。『フレッシュ』は、そうした動きに対して、まったく逆の流れから生みだされた映画ともいえる。
VIDEO
監督のイェーキンは、これまでハリウッドで『ルーキー』などの脚本を書いていたが、ハリウッドから距離を置き、小説を執筆する準備を進めていた。そんなところにプロデューサーのローレンス・ベンダーから誘いがかかり、自分にとって必ずしも身近な世界とはいいがたい黒人社会を題材に選び、脚本を書き、監督デビューを果たした。その身近な世界ではないことが、この映画を新鮮なものにしているのだ。
ブラック・ムーヴィーは、現実の体験が作品の大きな力になっている。ジョン・シングルトンの『ボーイズン・ザ・フッド』 やマティ・リッチの『ストレート・アウト・オブ・ブルックリン』 は、ドラマに実体験が色濃く反映され、ダイナミズムを生みだしている。それは間違いなく素晴らしいことだが、もう一方でブラック・ムーヴィーには、無意識のうちに、現実にあまりにも束縛され過ぎているきらいがある。
劇映画はドキュメンタリーではないのだから、作家は、フィクションのなかで、世界を自由に膨らませることができる。ところが、現実にこだわりすぎるあまり、フィクションとの境界に壁をもうけ、いざフィクションの要素を発展させようとすると、妙にこわばってしまうのだ。
たとえば、<黒人社会の二極分化を象徴する2本の映画>で書いたように、シングルトンは、その環境を体験していない人間が、なぜその環境を映画にできるのかという意見によって、暗にデニス・ホッパーの『カラーズ』を批判しているが、そういう意識がフィクションに対する足枷を作り上げてしまう。
スパイク・リーは、マスコミから何度も、なぜドラッグの問題を取り上げないのかという質問を浴びせられ、『ジャングル・フィーバー』 にその問題を盛り込んだものの、ドラマとしてはリアリティがないどころか、明らかにこわばっている。また、彼が『マルコムX』を映画化するときには、なぜ中流出身のスパイクが下層出身のマルコムを映画にするのかと批判された。このときも、スパイクがそんな偏狭な意見を無視して、自分にしか描けないマルコムを描けばそれですんだことなのに、彼は、中身がない、八方美人のマルコム像を作り上げてしまった。
イェーキンの『フレッシュ』が新鮮なのは、出口のない黒人社会を題材にし、フィクションの要素を自在に膨らませ、人間が掘り下げられたリアルな世界を構築しているからだ。黒人社会という題材は、野心的な脚本家の想像力を刺激し、創作に駆り立てるようなエピソードに満ちているのだ。
実際、筆者はこの『フレッシュ』を観ながら、映画とは直接関係のない現実のエピソードをいろいろ思い出した。たとえば、この映画の主人公は12歳のドラッグ・ディーラーだが、筆者は何年か前に「ヴィレッジ・ヴォイス」誌で読んだプエルトリカンの若者の物語を思い出した。その若者は、19歳にしてヘロイン密売の元締めになり、50人の人間を使い、週に4万5千ドル稼ぎ、優雅な生活を送っているというのだ。
あるいは、この映画ではチェスがドラマのポイントになっているが、筆者は昨年(1994年)読んだ黒人の新聞記者ネーサン・マッコールの『Makes
Me Wanna Holler』 という自伝のことを思い出した。この著者は、ブルーカラーの家庭に育ち、ギャングの一員となり、武装強盗の罪で刑務所に入れられる。しかし、そこで勉強を始め、釈放後にジャーナリズムの世界に入り、ついには「ワシントン・ポスト」紙の記者になる。そんな物語は、黒人社会に関する複雑で苛酷、かつ興味深いエピソードに満ちているが、そのひとつが、刑務所に送られた主人公が、老いたジャンキーの囚人からチェスを仕込まれ、社会のなかでの駆け引きを学んでいく場面なのである。