フレッシュ
Fresh


1994年/アメリカ/カラー/115分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:「フレッシュ」劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

少年の複雑な感情を浮き彫りにするゲームの駆け引き

 

 ボアズ・イェーキン監督の『フレッシュ』は、出口のない黒人社会を題材にした映画のなかでも、ちょっと異色の新鮮な魅力を放っている。アメリカ映画界では、数年前に黒人の若手監督たちが台頭しはじめ、ハリウッドでもブラック・ムーヴィーが盛り上がりを見せることになった。『フレッシュ』は、そうした動きに対して、まったく逆の流れから生みだされた映画ともいえる。

 監督のイェーキンは、これまでハリウッドで『ルーキー』などの脚本を書いていたが、ハリウッドから距離を置き、小説を執筆する準備を進めていた。そんなところにプロデューサーのローレンス・ベンダーから誘いがかかり、自分にとって必ずしも身近な世界とはいいがたい黒人社会を題材に選び、脚本を書き、監督デビューを果たした。その身近な世界ではないことが、この映画を新鮮なものにしているのだ。

 ブラック・ムーヴィーは、現実の体験が作品の大きな力になっている。ジョン・シングルトンの『ボーイズン・ザ・フッド』やマティ・リッチの『ストレート・アウト・オブ・ブルックリン』は、ドラマに実体験が色濃く反映され、ダイナミズムを生みだしている。それは間違いなく素晴らしいことだが、もう一方でブラック・ムーヴィーには、無意識のうちに、現実にあまりにも束縛され過ぎているきらいがある。

 劇映画はドキュメンタリーではないのだから、作家は、フィクションのなかで、世界を自由に膨らませることができる。ところが、現実にこだわりすぎるあまり、フィクションとの境界に壁をもうけ、いざフィクションの要素を発展させようとすると、妙にこわばってしまうのだ。

 たとえば、<黒人社会の二極分化を象徴する2本の映画>で書いたように、シングルトンは、その環境を体験していない人間が、なぜその環境を映画にできるのかという意見によって、暗にデニス・ホッパーの『カラーズ』を批判しているが、そういう意識がフィクションに対する足枷を作り上げてしまう。

 スパイク・リーは、マスコミから何度も、なぜドラッグの問題を取り上げないのかという質問を浴びせられ、『ジャングル・フィーバー』にその問題を盛り込んだものの、ドラマとしてはリアリティがないどころか、明らかにこわばっている。また、彼が『マルコムX』を映画化するときには、なぜ中流出身のスパイクが下層出身のマルコムを映画にするのかと批判された。このときも、スパイクがそんな偏狭な意見を無視して、自分にしか描けないマルコムを描けばそれですんだことなのに、彼は、中身がない、八方美人のマルコム像を作り上げてしまった。

 イェーキンの『フレッシュ』が新鮮なのは、出口のない黒人社会を題材にし、フィクションの要素を自在に膨らませ、人間が掘り下げられたリアルな世界を構築しているからだ。黒人社会という題材は、野心的な脚本家の想像力を刺激し、創作に駆り立てるようなエピソードに満ちているのだ。

 実際、筆者はこの『フレッシュ』を観ながら、映画とは直接関係のない現実のエピソードをいろいろ思い出した。たとえば、この映画の主人公は12歳のドラッグ・ディーラーだが、筆者は何年か前に「ヴィレッジ・ヴォイス」誌で読んだプエルトリカンの若者の物語を思い出した。その若者は、19歳にしてヘロイン密売の元締めになり、50人の人間を使い、週に4万5千ドル稼ぎ、優雅な生活を送っているというのだ。

 あるいは、この映画ではチェスがドラマのポイントになっているが、筆者は昨年(1994年)読んだ黒人の新聞記者ネーサン・マッコールの『Makes Me Wanna Holler』という自伝のことを思い出した。この著者は、ブルーカラーの家庭に育ち、ギャングの一員となり、武装強盗の罪で刑務所に入れられる。しかし、そこで勉強を始め、釈放後にジャーナリズムの世界に入り、ついには「ワシントン・ポスト」紙の記者になる。そんな物語は、黒人社会に関する複雑で苛酷、かつ興味深いエピソードに満ちているが、そのひとつが、刑務所に送られた主人公が、老いたジャンキーの囚人からチェスを仕込まれ、社会のなかでの駆け引きを学んでいく場面なのである。


◆スタッフ◆

監督/脚本
ボアズ・イェーキン
Boaz Yakin
製作 ローレンス・ベンダー/ ランディ・オストロウ
Lawrence Bender/ Randy Ostrow
製作総指揮 リラ・カゼス
Lila Cazes
撮影 アダム・ホレンダー
Adam Holender
編集 ドリアン・ハリス
Dorian Harris
音楽 スチュアート・コープランド
Stewart Copeland

◆キャスト◆

フレッシュ/マイケル   ショーン・ネルソン
Sean Nelson
エステバン ジャンカルロ・エスポジート
Giancarlo Esposito
サム サミュエル・L・ジャクソン
Samuel L. Jackson
ニコール N'ブッシュ・ライト
N'Bushe Wright
コーキー ロン・ブライス
Ron Brice
ジェイク ジャン・ラマール
Jean LaMarre
(配給:パイオニアLDC)
 


 『フレッシュ』は、まさにそうした現実の断片をヒントに、鋭い洞察と想像力によって独自のリアルな世界を構築する映画なのだ。イェーキンは、ドラマに余計な感情を盛り込むことを避け、渇いたタッチで主人公の世界を描きだしていく。12歳のディーラー、フレッシュは、映画の最後の最後まで、まったくと言っていいほど感情を表に出すことがない。彼は通学の途上で、まるで家族から用事を言いつかったかのようなさり気なさでヘロインを受け取り、運び屋をつとめる。クスリ欲しさに泣きついてくる女を、大人顔負けの態度で冷たく突き放す。ヤク中の姉が、密売組織のボスにかわいがられているところに出くわしても、ひたすら平静を装う。

 そんな彼の表情は、チェスという要素と結びつくことで、いっそう大きな意味を持つことになる。彼の父親は、人生が破綻し、チェスだけを生き甲斐にしている。そのため、チェスだけが父親と息子を結ぶ絆になっている。そして、フレッシュが麻薬密売という大人の世界に順応していく姿もまた、チェスの駆け引きとダブっていくことになるのだ。

 このチェスという要素は、渇いた視点で描かれるドラマのなかで、逆に、現実を生々しく浮き彫りにする役割を果たす。フレッシュのゲームなかで、最初にキングの位置にあるのは間違いなく金である。彼は、金さえあればいつかすべてのものが手に入ると信じている。ところが、彼にとって本当に大切なものが、意味のない駒のように殺されてしまったとき、駒の位置づけが変わる。いや、正確には位置づけが変わるだけではない。ゲームそのものが変わるのだ。フレッシュにとってチェスは、大人の世界に順応するためのゲームだった。しかし、大切なものを失ったとき、チェスは、大人の世界を強引に自分の世界に引き込むためのゲームに変わる。彼は、復讐のために、必死に大人の世界を自分の土俵に引き込もうとする。そこに、12歳の少年の怒りや幼さ、悲しみなどが見事に凝縮されていくのである。

 しかし、ゲームの結末は甘くない。フレッシュの父親は、フレッシュがゲームのなかでキングを金に見立てているとき、息子のチェスを守りのチェスだとたしなめる。そのフレッシュのゲームが変わったとき、彼は、父親の望む攻撃のチェスで自分の目的を果たすと見ることができる。しかしながら、この父親のチェスは、正規のそれではなく、自分が絶対に勝てるスピード・チェスであり、父親は、実は人生の意味を見失った逃避に走っているのだ。イェーキンは、そんなチェスの苦々しい結末を、初めて感情をあらわにするフレッシュを通して、見事に浮き彫りにするのである。


(upload:2001/09/02)
 
 
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