[ストーリー] 家族の幸せを第一に生きてきた中年女性イーダ。乳がんの治療もひと区切りつき、娘の結婚式を目前に控え、明るい未来が見え始めたそのとき、夫の浮気が発覚。一方、イギリス人の会社経営者フィリップは、愛する妻を事故で失った悲しみから何年たっても立ち直れず、仕事ひと筋に打ち込んできた。そのせいでひとり息子とも疎遠、心通わせる相手がひとりもいなくなっていた。イーダとフィリップは、それぞれの娘と息子が結婚式を挙げるイタリアへ向かう空港で、偶然にして最悪の出会い方をする。[プレスより]
スサンネ・ビア監督の『愛さえあれば』は、陽光がまぶしい南イタリアを主な舞台にしたラブコメディだ。これまで公開されたビア監督の作品は、みなシリアスなドラマだった。彼女が関心を持っていたのは、思いもよらない出来事によって日常が崩壊しかけたとき、人はその危機的な状況にどのように対処するのかということだった。
ラブコメディであるこの映画では、主人公たちが危機的といえるほどの状況に陥ることはない(イーダの夫の浮気は事件ではあるが、ビア監督はそれを深刻に描こうとはしていない)。思いもよらない出来事は、いまここではなく、過去に起こっている。もしこれがシリアスなドラマだったら、ビア監督は、イーダが乳がんを宣告され、治療で髪が抜け落ちていく時点、フィリップが妻の事故死という悲劇に見舞われる時点を描いていたかもしれない。
だが、いずれにしてもこの映画では、そんな過去が清算されているわけではない。イーダはウィッグをつけていることにコンプレックスを抱き、神経質になっている。フィリップは喪失の痛みから完全に立ち直ることができず、完全な仕事人間になっている。イーダのウィッグは、彼女が自分を偽ろうとしていることを、フィリップの仕事至上主義は、彼が自分を見失っていることを示唆している。
ビア監督と脚本のアナス・トーマス・イェンセンが見つめようとしているのは、本来の自分といまの自分のズレだ。それはパトリックとアストリッドという若いカップルのドラマを見てもわかる。自分がどんな人間なのか理解していなかった彼らは、南イタリアの限られた時間のなかで変わっていく。
この映画には、自分を偽ろうとする人間、自分を見失った人間、まだ自分というものが見えていない人間、そしてベネディクテのように自分に都合のよい思い込みに囚われた人間が入り乱れる。彼らは、お互いに自分のいまある姿を映す鏡となり、やがて主人公たちは本来の自分に目覚めていくことになる。 |