そのもうひとつの世界の描写はどれも印象に残る。たとえば、冒頭に部分に出てくるこのような表現だ。
「アフリカには良い月と悪い月がある。月が大地の恵みと人の運命――待ち望んだ首長の誕生、結婚の日取り、親類の来訪、雨の到来――を告げる。月食、黄色い月、弧が上にある三日月は不吉だ。飢え、不作、争い、病いが起きる。まわりにうっすらと暈――まじない師は「輪縄」と呼ぶ――のかかる月が意味するものはたったひとつ。死だ。アフリカの人たちは悪い月の運命を摘みとるためにはどんな努力も惜しまない。しかし、そこから地軸を半回転させた場所、このホノルルでは、夜は蛍光灯で明るく照らされ、天を見上げることもめったにない」
導入部から月を通して死が強調されているように、この物語では死が重要な位置を占めている。その死をめぐる視点は、イーストウッドの『インビクタス 負けざる者たち』レビューで書いたことにも繋がる。南アに戻ったアビーは、祖母のもとで働いていたまじない師ビューティを探し、死者の声を聞こうとする。さらに、彼女自身が、人の命を奪うという事態に直面することにもなる。つまり、この物語もまた、死から生へと向かうのだ。
■■安全な世界、安全な生活のなかで見失われるもの■■
こうした死に対する洞察は、ビアの世界とは異質だが、ここで筆者が注目したいのは、安全に対する意識だ。たとえばアビーは、回転遊具についてこのように考える。
「目眩がする風景。回転遊具はもうない。それはどうして? 最近の遊び場は活気がない。あらゆるものが安全を基準に選ばれ、ボルトで固定され、錆が浮かない。柔らかな素材で舗装してあるので、だれが飛び降りても安全で、怪我をしない。それはいいことだとわたしも思う。でも、安全と引き替えに、回転遊具の面白さを引き渡したのだ」
とまあここまでならありがちな意見といえないこともない。だがこの文章には長い続きがあり、そこに著者モーリーのこだわりが表れている。
「クレオは回転遊具のスリルを一度も味わわなかった。鉄の棒にぶらさがるのがどんなものか知らなかった。片足を円形の足場にしっかり固定し、もう片方の足で地面を蹴って、あらゆるものがくるくると回るまでスピードを上げていく。そして振り落とされないように鉄の棒をしっかりつかんで回るのだ。硬いコンクリートに着地するとか、脳しんとうを起こすとか、風力で引き剥がされるなどということは考えもしなかった。ただ、木々がどんどん過ぎ去り、地平線が見えなくなり、静まり返った空気が急に渦を巻き、体が後ろに引っ張られた。その力のあまりの強さに、棒を握る手の関節が白くなった。目に見えない無数の腕が体に巻きつき、足場から引き剥がされそうになった。体中の細胞が興奮で弾け、皮膚の下を何かが走っていくような感じがした。内蔵が打楽器になったような感覚だった。恐怖で悲鳴をあげるというより、もう少しで振り落とされそうになるという興奮で、そのつもりもないのに笑い出した」
安全であることの価値を認めつつも、生の実感を実に鮮やかに表現することで、それを暗黙のうちにひっくり返しているところに、筆者は、ビアの世界と通じるものを感じる。たとえば、『ある愛の風景』の家族は、予期せぬ出来事が起こらなかったとしたら、身の回りの安全だけを確保しようとする社会のなかで、敷かれたレールの上を歩み、画一化された幸福を求めていたかもしれない。『日曜日の空は』のアビーもまた、悲劇をきっかけに、安全を基準にした世界から飛び出し、死者の領域へと踏み出し、そこから生や愛にたどりつく。
ところで、ビアはアフリカには関心がないのだろうか? 実は彼女がハリウッドに進出した『悲しみが乾くまで』に続く新作『未来を生きる君たちへ(In a Better World)』では、物語がアフリカの難民キャンプから始まり、デンマークの地方の町を中心に展開していくようだ。彼女が『日曜日の空は』を映画化したら、おそらく素晴らしい作品になることだろう。 |