そんな彼らに思いもよらない出来事が起こる。デンマーク軍の一員としてアフガニスタンに派遣されたミカエルが、作戦中にヘリもろとも撃墜される。戦死の知らせによって妻子や両親は喪失感に苛まれ、憔悴していくが、そこで彼らの支えになったのは、心を入れかえたヤニックだった。そして、ミカエルの妻サラとヤニックの距離は次第に縮まっていく。だがそんなときに、九死に一生を得てアルカイダの捕虜になっていたミカエルが、別人のようになって帰還する。
この映画の冒頭には注目すべき場面がある。そこではミカエルの信条が明らかにされている。ミカエルが刑務所から出所したヤニックを出迎え、家に向かうクルマのなかで兄弟の会話が始まる。ところが途中でヤニックが怒り出し、クルマを降りてしまう。ミカエルは、弟が働いた銀行強盗にまで責任を感じ、自ら被害に遭った行員に謝罪に行っていたのだ。刑務所で罪を償ったヤニックは、わざわざ行員に謝罪する必要はないと考えていたのだろう。
強い責任感と義務感を持つミカエルは、どんな罪でも償わなければならないし、償うことができると信じている。そんな信条は、このドラマに独自の視点をもたらし、深みを生み出していく。
ミカエルの戦死を知らされたヤニックは、兄の信条に従うかのように行員に謝罪に行く。そして、行員と和解した彼は、家族との溝も埋めていく。その時点では、兄の信条は正しかったといえる。ところがその頃、アフガニスタンでは、捕虜となったミカエルが一線を越え、取り返しのつかない罪を犯している。帰還した彼は、それでも何とか罪を償うために無線技師の妻に会いにいくが、幼い息子の姿を目の当たりにして精神的に追い詰められる。
このドラマは、罪と贖罪をめぐってひとつの段階から次の段階へと移行する。その状況はきわめて深刻だが、スサンネ・ビアは、必ずしもそれを悲劇として描いているわけではない。どんな罪も償うことができると信じることは、突きつめれば自分を取り巻く環境をすべてコントロールできることを意味する。たとえば、ミカエルの一家が暮らしているサバービアの生活環境のように。
もし彼らが、現在の不安定な世界と繋がることがなく、身の回りの安全だけを確保しようとする環境のなかで、敷かれたレールの上を歩んでいれば、画一化された幸福は得られたかもしれない。だがそれは、あらかじめ枠組みが定められたような幸福だ。ミカエルを通して世界と向き合うことになったサラは、夫がいる段階へと踏み出し、より深い愛に目覚めていくのだ。 |