そんなドラマは、サバービアという環境と家族をめぐるテーマと容易に結びつけることができる(ここで映画の製作を手がけているのが、『アメリカン・ビューティー』を監督したサム・メンデスであることを確認しておこう)。
オードリーの夫の親友ジェリーは、薬物中毒に苦しめられ、治安があまりよいとはいえないインナーシティの簡易宿泊所で生活している。安全なサバービアに暮らす彼女は、夫が親友に会うためにそんな場所に足を運びことを望まない。夫になにか悪いことが起こるとしたら、間違いなくそんな場所で起こる、と彼女は考えている。
しかし実際には夫は、ショッピング・センターに買い物に行ったときに、その駐車場でトラブルに巻き込まれ、命を奪われる。そこは、安全なはずのサバービアの一角だ。
オードリーのなかに巣くう先入観はそれだけではない。彼女は、薬物中毒や生活環境というフィルターを通してジェリーという人間を見ていた。だから、小銭がなくなったときに、心のなかで彼のことを疑っていた(それは後に身近な場所からあっけなく見つかる)。
オードリーは自分の悪しき先入観に気づき、ジェリーに協力を求め、ふたりの距離は縮まっていくが、本当の意味で呪縛を解かれたわけではない。ジェリーは、彼女の子供たちについて、母親でも知らないことを知っている。夫が話していたからだ。そして、子供たちもジェリーになついていく。だが、オードリーはそれを素直に受け入れられない。
そんなエピドードも、サバービアと無関係ではない。サバービアの生活は、家族の理想に従ってすべてをコントロールできるような幻想を生む。『ある愛の風景』でも、そんな幻想がひとつのポイントになっていた。そして、だからこそ、自分の思い通りにならないと、失望や苛立ちが増幅される。
ささいなことのように思われるかもしれないが、この映画では、それが重要な意味を持っている。なぜなら、最悪の出来事は、インナーシティやショッピング・センターの駐車場ではなく、自分の足元で起こるかもしれないからだ。失望や苛立ちに囚われたオードリーは、ひとつ間違えば夫の親友を死に追いやっていたかもしれない。
姿を消したジェリーを探し出すために、オードリーが、インナーシティの簡易宿泊所だけではなく、最も荒廃したエリアにまで踏み込んでいく光景は、筆者には非常に象徴的に見える。明るいサバービアとインナーシティの闇は、最悪の出来事を通して繋がっているのかもしれない。この場面は筆者にそんなことを考えさせるのだ。 |